2019年05月15日

[vol.47]桜を観に行く

今年の桜は、開花の時期は昨年とほぼおなじころだったが、花は咲けど気温は上がらず、観桜と洒落こんでも寒くて震えたという人が多かった。
趣味の謡曲の仲間の一人は、三月末に新神戸駅近くの小公園で夜桜の観桜会に参加したものの、「いや、寒くて参りました」とのこと。それでも微醺を帯びれば『忠度』か『吉野天人』でしょう、と水を向けてみるが、「それどころじゃありませんでした」という。

四月に入ってもけっこう肌寒い日が続く。しかし桜は咲いている。そこで好天の日を選んで家人に車を出してもらった。
まずは王子公園へ行き、東端の青谷川沿いに咲いているのを愛でながら坂を北上し、また東行して摩耶ケーブル駅前に出る。そこから桜並木を降る。100メートルほど南下する坂道の両脇にずーっと満開の桜の木が並んでいる。その花のカーテンのわずかな隙間に藍色に光る瀬戸内海が見える。なんとも美しい。今年もこの桜並木を潜りぬけることができた。満足である。

坂を降り切って東行する。護国神社あたりのバス道の両脇にも幾本かの桜があり、花道をつくっている。見上げると六甲の山肌は点在する桜花に芽吹き始めた木々の緑が立ち混じり、柔らかな、そしてけだるい目覚めのごとき表情を見せている。

阪急芦屋川駅まで走り、そこから川沿いに阪神芦屋駅まで南下する。両岸の桜は国道2号線あたりまで続く。ここも満開である。一時川岸でバーベキュウする人たちがいて顰蹙を買っていたが、禁止令が出たのか、昨今は見かけない。爛漫たる桜花、潜りぬけながら流れる河水、遊歩しつつそれを愛でる人影――けだし文化都市芦屋にふさわしい光景だろう。どうぞこのままバーベキュウの油と匂いに汚されないでほしいものだ。

帰宅して車を降りた後、今度は歩いて近所の一本桜を観に行く。今年も存分に花を付けた枝が垣根を越えて歩道に張り出し、道行く人に花を投げかける。しばし佇み、願わくは豪奢なる花吹雪わが身の上に降りかかれよ、と念じてみる。

夕刻、新筍の煮物を肴に燗酒の徳利を傾ける。

 狂い女の襟にひとひら櫻川   朱呑子
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2019年05月01日

[vol.46]研究会

3月末日をもって年度が替わる。勤めを辞めた身は世俗の暦に煩わされる恐れはないからどうということはないが、それでも卒業、入学、進級など区切りの時節だな、という感慨はある。自分はもちろん、子供たちもすっかり学校を終えた今でも。

末の31日に研究会があった。以前籍を置いていた大学の研究室の春季恒例の会で、年次総会のあと研究発表もある。発表の題目はエリアス・カネッティの群集論とアイヌ語の表記の問題。出席者は約50名。ドイツ語学担当教授の退任記念会も兼ねていたので、東京、金沢、信州から駆け付けた者もいて盛会だった。

アイヌ語の表記に関する発表は退任教授のいわば退任講義ともいうべきものだったが、専門のドイツ語学とどう関係するのか、比較言語学的観点によるものでもなさそうで、野次馬的聴衆の一人に過ぎぬ愚生はただ首を傾げるだけに終わった。

退任講義は、理想論を言えば、在職時に蓄積した研究業績の成果、その粋をそっと差し出す態のものだろう。若い時に吉川幸次郎教授の退官講義を聞いたことがある。杜甫の詩を取り上げ、字句の意味を細かに解釈し、字間句間に漂う芸術的情感を汲み出す見事なものだった。長い研鑽を重ねた末に染み出す滋味あふれる一滴と思われた。

発表会のあと学術情報センター1階のレストランに席を移して退任教授の歓送会を催す。しばし盃をめぐらし、歓談。和歌山へ帰る教授を杉本町の駅で見送ったあと、居残り組は近くの昔なじみの「いわし亭」に上り、いわしのフライなどを肴に酒を汲む。思えばもう15年以上前のことになる。この「いわし亭」や近くの「ちろりん村」、料亭(と称せられていた)「新末広亭」などを経めぐり歩き、教室会議や教授会の続きをやっていた。「雪国」というのもあったな。

ここ大阪市のディ―プサウスを離れてから大阪府の東北の枚方市へ行き、そこでも駅近くの酒亭「たこ柾」で学務終了後に有志と飲み、いまは東神戸の居酒屋を愚妻と飲み歩いている。

杉本町の線路際、田中会館近くのあの一本の桜木も、早咲きだから間もなく満開となるだろう。玄関前の石碑には「桜花爛漫 月朧ろ」と、確か刻まれていたのではなかったか。
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2019年04月15日

[vol.45]森伊蔵

「森伊蔵が手に入った、飲みに来ないか」というメールが知り合いの夫婦からきた。即座に「行く」と打ち返す。愚妻を入れて四人、しゃぶ鍋をすることにし、牛肉を買い込んで参上する。知り合いは中小企業の自営者。商用で鹿児島へ出張したときに「貰ってきた」のだという。

愚生はふだん焼酎はあまり飲まず、その種々の情報にも疎いほうだが、それでも森伊蔵が天下に名だたる名酒と巷間噂されていることくらいは心得ている。それが一升ある。心昂ぶるではないか。

とりあえずビールで喉を湿らせたのち、生のままの少量を嗅ぎ、含む。何もわからぬくせにそれらしく恰好をつけるための仕草である。芋の香は予想したほどはない。重くなく爽快で切れのある味わいである。飲みやすい。それを湯割りで飲む。

時は弥生。たまに寒の戻りがあって春めいた日和はまだ少ない。梅はさすがに時季を過ぎた。この辺りでは「梅は岡本、桜は吉野」というらしいが、遠い吉野はさておき、近隣でも桜はまだ花をつけない。知人宅は東灘の沖の人工島にある。人工島には桜の木はない。あっても僅かである。拙宅近辺にも桜は少数である。桜花愛でるには東は芦屋川、西は王子公園まで出向かねばならない。せっかくの森伊蔵も桜宴の友とはならなかった。

拙宅の近所の某家に一本の大木あり。昨年はこれが満開となって楽しませてくれた。桜花爛漫、歩道にまで張り出した桜の枝の花の下、通りすがりの身に過ぎぬ者ながら、至福の一刻を過ごすことができた。さて、今年はどうか。満開の桜の木の下には鬼が棲む――とか言われている。ひょっとすると日暮れどき、その鬼に頸筋あたりへしがみ付かれるかもしれない。

劇団「清流劇場」の今年春の公演は『壁の向こうのダントン』(G.ビュヒナー『ダントンの死』の改作)だった。その「清流劇場」恒例の花見会が四月一日(といってもウソではないらしいのだ!)天王寺の茶臼山で行われる。茶臼山には桜が多い。参加されたしとの連絡あり。行ってみようと思っている。

一升瓶の森伊蔵はとても飲み切れなかった。男女四人頑張ったが、飲んだのは精々三、四合くらいだろう。他に倉敷土産だという森田酒造の濁り酒も供され、これが飲みやすくてつい過ごしたせいもある。せっかくの森伊蔵だ、抜栓しながら濁り酒のほうに口を奪われるとは何ごとぞ、と叱られるだろう。

森伊蔵と濁り酒と牛しゃぶで3時間余り、桜花こそなけれど春宵一刻値千金、朧月の下帰途に就く。
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