2019年07月01日

[vol.50]酒の会

劇団清流劇場7月公演『アルケスティス異聞』のシナリオを担当している。いまその一部をどう修正するか、腐心している。演出担当者の意見もあるし、彼を通して稽古場の俳優たちの声も聞こえてくる。古代ギリシアでは作家が演出も兼ねていたから両者の間の齟齬は表面的にはないはずだが、稽古場での俳優との遣り取りは、あったとして、それはどんなものだったのだろうか。俳優の意見を聞くこともひょっとしてあったのではないか。前5世紀半ば(前449年)には優秀俳優賞の選考も始まっていたから、俳優の地位もあながち軽視できないものになっていたはずである。

エウリピデスにはケピソポンという合作者がいた、という話がある。事実とすれば、作品作成の上で決定稿に至るまでに二人の間にさまざまな葛藤があったかもしれぬ――そんなことも想像できる。エウリピデスもまた苦労していたのだ!?

シナリオ修正の面倒な日々、その合間をぬって「いい日本酒を育む会」の今年第2回目の例会(大阪、リーガロイヤルホテル)に行ってきた。今回は女性杜氏の酒特集で、「川中島」(長野)、「白龍」(福井、永平寺)、「るみ子の酒」(伊賀)、「京の春」(京都、伊根)、「灘菊」(姫路)、「車坂」(和歌山、岩出)の6品種を楽しんだ。「川中島」が飲みやすい、いつまでたっても初心者の愚生には。

宴たけなわ、伊根の女性杜氏向井久仁子女史が登壇して苦労話を面白おかしく披露し、満場の喝采を博す。出席者は80名ほど。酒は浴びるほど用意されているが、酒肴のほうがいつもながら不足気味。時節がら人気の鮎、鱧など瞬く間に姿を消す。残念だ。

同じテーブルに川村、田尻の両氏。前者は和歌山海南の開業医で、その昔愚生がドイツ語初級の手ほどきをした学生。ついでに課外で初級ギリシア語もやった。
後者はお馴染みのスペイン演劇研究者。
「セルバンテス、済みました?」
「え、なんとか」
昨年から後輩を引き連れてセルバンテスの劇作品の翻訳に当っていたのである。
「スペインは?」
「秋にまた」
ということである。
ほろ酔い状態で帰宅し、ぐっすり寝て、起床後また机に向かうが……

シナリオ修正はまだ決着がつかない。一度稽古場へ顔を出さねばなるまい
posted by 出町 柳 at 10:00| Comment(0) | 読む・歩く・飲む

2019年06月15日

[vol.49]生と死

むかしヘラクレスという男がいた。むかしといっても古代ギリシア人が神話伝承の中で親しんでいた人物である。とにかくたいへんな英雄豪傑で、世界中(当時の)いや冥界までも訪ね歩いて悪漢や怪獣怪物退治にいそしみ、世の中の混乱の鎮圧と平定、平和と秩序の構築に貢献すること大であった。その風体、顔は髭面、手には棍棒、身には獅子の毛皮を纏う。その性温順、但し好色、かつ鯨飲馬食の巨漢。この後裔にエルキュール(ポワロ)というのがいて、こちらは小男(チビ)、鬚は鼻下に八の字(但し先は両方ともピンと跳ねあがる)、卵形の頭部。元祖の腕力に代わる灰色の小さな脳細胞。これでもって怪物ならぬ数々の難事件を退治する。この彼が活躍するのは概ねイギリスの地方の田園地帯に残る城館で、そこに起きた遺産をめぐる一族の葛藤と殺人事件。背景にはインドやアフリカからの帰還者とか、執事、召使、料理人、庭師などの植民地支配の時代色、またひと時代前の階級社会の残滓が窺われて興味深い。これが愚生の恰好の睡眠剤となってくれている。
元祖のヘラクレスは死者を蘇らせる力をも有する。エウリピデスが残したギリシア劇『アルケスティス』(前438年上演)では、アドメトスの身代わりとなって死んだアルケスティスを死神と格闘して生き返らせるという離れ業を演じる。「死と生」をテーマとはするものの、これはいわゆる通常の悲劇ではない。作家一人に許された上演4作品の最後の4作目サテュロス劇(山野の精サテュロスが卑猥な仕草で笑いを取る口直しの小篇)の代用作品とされているものである。たしかにサテュロスが登場しないからサテュロス劇ではなく、その代用品であるが、さりとて単なる笑劇でもない。もっと何かありそうだ。
ヘラクレスが奮闘してアルケスティスは死の淵から奪還される。その妻をアドメトスは大喜びで迎える。ペライの町に安寧が戻る。大団円。そこで劇の幕は下りる。作者エウリピデスは意地が悪い。ここで筆を擱き、「その後の二人」を描いていないからだ。彼らは今後どう向き合って生きるのか。アルケスティスは再生して得た二度目の生をどう生きるのか。アドメトスは死せる妻アルケスティスを哀惜すること尋常ではなかった。その妻を再び得た彼の喜びは大きい。それはわかる。だがその妻を、自分の身代わりとなって死にかつ再生した妻を前にして、このあと彼はどう生きて行こうとするのか。それが問題だ。それは喜びばかりではないはずだ。そうではないか。
『アルケスティス異聞』(劇団清流劇場7月公演)では、蘇生後三日目の朝アルケスティスはひとり家を出る。ノラのようだが、ノラではない。ドアを後ろ手に閉めながら「やめようかしら」とも言わない。ただ出て行く。
自らに下された死の運命と妻の身代わりの死と再生に翻弄されたアドメトスは、いま訪れた妻との生別を前にして自らの生と死との「向き合い方」を初めて考え始める。
考え始めざるを得ない。
エウリピデスの『アルケスティス』のヒュポテシス(古伝梗概)は、劇の「悲劇的な調子が最後は喜びと楽しさに変わる」とし、だからこの劇はサテュロス劇風だというが、はたしてそうか。喜びと楽しさを素直に味わい得ない観客はアルケスティスに、アドメトスに、そして自分たちに与えられた三日間を、あれこれ考える。『アルケスティス異聞』はそのひとつの解答例である。
posted by 出町 柳 at 10:00| Comment(0) | 読む・歩く・飲む

2019年06月01日

[vol.48]10連休

2019年5月1日をもって本邦の元号は平成から令和へ改められた。天皇の生前退位による。これは江戸時代の光格天皇以来のことで、約200年ぶりだということである。祝賀行事の一環だろうか、4月29日から5月6日までの
10日間が連休になった。
前例のない長期連休を、さあどう使うか、いやどう過ごすか。マスコミはさまざまに挑発し煽動する。世の善良なる市民は、それに乗せられて国内外の観光地行楽地へいそいそと出掛ける。

見知らぬ土地へ旅をして知見を広めるのはよいことだ。あわせて日頃の生活で蓄積された疲労が解消できれば、いうことはない。ただどこへ行っても同じ目的を持った人たちと出会い、またそこで一緒くたに揉まれるから、はたして疲労回復になるのかどうか。いっそ人が出払った町なかに居残る方が得策かもしれない。近所の並木の新緑も、遠い行楽地の新緑も、新緑に変わりはないのだから。
さて、では、わが連休の消化過程をご報告する。と申して――何ほどのものでもない。まず、しばらくうっちゃっていた「フェルメール展」(大阪市立美術館)へ、閉展の期日が迫って来たので慌てて足を運んだこと。ただしフェルメール展とはいうものの、彼の作品は6点のみ。しかも人気の高い『真珠の耳飾りの少女』は欠、あとは同時代(17世紀)のオランダ絵画、併せて45作品の展示だった。それでも超満員で、絵よりも人の後頭部ばかりを見る次第と相成った。これが5月3日。
翌4日には東都から帰って来た愚息ら、それに愚妻と義母といっしょに有馬へ一泊で行く。愚息らが幼児のころから馴染みのグランドホテルに投宿し、温泉と食事を楽しむ。大浴場の大窓から新緑の山並みを眺望する。絶景かな!
6日、帰京する愚息らを見送ったのち、午後2時、芦屋ルナホールへ出掛け、ジャズのビッグバンド「モダンタイムス」第9回レギュラーコンサートを聴く。
ゲストヴォ―カルは朱夏洋子。曲目は30年代、40年代のスタンダードナンバーが中心。そのせいか一杯の客席には中老年のファンが目立つ。同世代の愚生も『カモンナマイハウス』や『身も心も』などを楽しんで聴く。帰途、阪神芦屋駅近くの洋風居酒屋「おさむ」に寄り、同行の愚妻と白ワインのボトル1本を空ける。
7日、故金谷信之氏を偲ぶ会に出席。高校の大先輩、といっても氏は旧制一中卒だから年代が違う。関西地区の同窓会でご一緒させていただき、以後酒席もしばしばご一緒させていただいた。一中を首席で卒業後、六高、東大、丸善石油と、まさに理系秀才の経歴であるが、晩年の生活録(癌闘病記を兼ねた)『のぶゆき残日録』(渓水社)ではその筆の赴くところ、理系の枠を超えて、歴史、文学、教育、人生一般から市井の雑事まできわめて広範囲な事象を165段にわたって観察し考証し報告している。その生涯と人柄が如実に窺われて興味深い。出席者8名と小人数の会だったが、いずれも生前の氏に親炙した人ばかりで、まずは献杯、あとは談論風発のうちに在りし日の氏を偲ぶ。
9日、劇団清流劇場の次回公演『アルケスティス異聞』の稽古(といってもまだシナリオの読み合わせ段階)に顔を出す。愚生は、これにはシナリオ担当として責任を分担することになるから、ひときわ力が入る。稽古後、持参したシチリアワインで乾杯し、新たなる出発を誓う。
かくして連休は瞬く間に過ぎた。以上。
posted by 出町 柳 at 10:00| Comment(0) | 読む・歩く・飲む