エウリピデスの『アルケスティス』(前438年上演)はサテュロス劇の代替品として上演された、すなわち上演4作品の最後4番目に口直しの小品として上演されたとしている。とはいえサテュロス劇(及びその代替品)がつねにコミカルな附録の小作品ばかりというわけでもない。けっこうシニカルな問題も扱われている。
ギリシアの小国ペライの王妃アルケスティスは夫アドメトスの身代わりとなって死ぬ。アドメトスの友人ヘラクレスがたまたまそこへ行き合わせ、葬儀の取り込み中にもかかわらず手厚い接待を受ける。事実を知ったヘラクレスは感じ入り、歓待のお返しに死神の手からアルケスティスを取り返してやる。
かくして大団円となるのだが、アルケスティスは死神に捧げられた身の浄めが済むまで三日間口が利けないことになっている。その三日が経つまでに、しかし劇は終わってしまう。「そりゃないだろう、三日後に彼女が何を喋るか、聞かせてくれ」と、客席の男たちは、いや女たちも、騒ぐ――はずである。
原作にはない三日後のアルケスティスの言葉と行動を「かくやあらん」と書き加えたのが『アルケスティス異聞』である。
死から甦ったアルケスティスはもうかつての彼女ではない。新しい生を求めて家を出る。そんな近代的な自立する女性をギリシア古典劇に唐突にくっつけてはならん、とお叱りを蒙るかもしれない。千秋楽のアフタートークの場でも客席からそういう批判の声が上がった。それじゃノラの二番煎じに過ぎないということだろう。
しかしアルケスティスはノラではない。前5世紀半ばにも「生きること」を始めた女性はいたはずで、なにもノラがその種の最初の女性ではない。むしろノラこそアルケスティスを模倣したのだ。付け加えれば、新しく出発する彼女に触発されてアドメトスも新たな生を生き始める――そういう状況を三日後の彼ら二人の前途に予想できる――『アルケスティス異聞』の異聞たるところはそこにある、と言っておこう。
古典は後世の各時代の吟味を受ける。受けてまたいっそう強靭になる。そしてその都度蘇生する。
ギリシア悲劇はオイディプスやメデイアやアンティゴネら選良のためにだけあるのではない。そこには死と生をめぐって罵り合うぺレスとアドメトスのような庶民の味が横溢する親子も居る。日常生活の足下にも悲劇は転がっている。
庶民は悲劇を言挙げしないだけだ。
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