2018年02月01日

[vol.16]旅宿の花

平薩摩守忠度は平家一門の武将、しかも本流も本流、清盛の弟に当たる。とはいえ生まれは紀州熊野川の流域の音川とされるから、単に柔和な都の貴族であったわけではない。富士川の戦い、倶利伽羅峠の戦いなど、源家との戦には幾度となく出陣し武名を挙げている。一方で、しかし彼は和歌の道に秀でた文化人でもあった。京の都で藤原俊成に師事して歌の道に励み、後世にその名を遺した。

栄枯盛衰は世の習い。驕る平家も久しからず。栄華を極めた一門も西の方壇ノ浦まで落ちてゆく。清盛亡き後平家一門の棟梁となった宗盛は幼い安徳帝を擁して都を捨て、西国へ落ちてゆく。
忠度も落ちてゆく。「淀の河尻」辺りまで行きしのち、侍五騎、童一騎、己を入れて計七騎、京の五条の藤原俊成邸へ取って返し、出迎えた俊成師に「秀歌とおぼしきを百首あつめられたる巻物」を託し、いずれ編纂される筈の勅撰和歌集への収録を依願する。
今は西海の浪の底にしづまば沈め、山野にかばねをさらさばさらせ。浮世に思ひをく事候はず。さらばいとま申て
(『平家物語(下)』忠教(度)都落、新日本古典文学大系、岩波書店)

馬上の人となった忠度は「前途程遠し、思を雁山の夕の雲に馳」と高らかに口ずさみつつ去る。

源平の争いが終わり世の中が静まったのち、勅撰和歌集『千載集』が編纂されたが、撰者俊成は忠度から託された巻物から一首を撰び、収録した。
さざなみや志賀の都はあれにしをむかしながらの山ざくらかな

しかし忠度は朝敵となった平氏一門、勅勘の身であるということで、その名は記されず、「読み人知らず」とされている。

昨年の年末、さる謡曲同好会の諸氏の喉を拝聴する機会があった。いずれも素人だが、長い人で10年以上のキャリアがある。そのなかに『忠度』を謡った人がいた(あとは『野宮』と『羽衣』)。
摂津の国、須磨の浦の桜の花の下、一ノ谷の合戦で討ち死にした忠度が旅の僧の夢枕に霊となって現われ、先に俊成によって「読み人知らず」とされたわが歌に作者名を付けてくれるようにと、俊成の子の定家への伝言を頼む。さらに坂東武者岡部六弥太忠澄との死闘および箙に結わえつけた歌一首によって身の上が明らかになったことなどを語って花の陰に消える(『謡曲百番』「忠度」、新日本古典文学大系、岩波書店)。
箙の歌は以下の通り。
行暮れて木の下陰を宿とせば花や今宵の主ならまし

武人という浮世の生業は一門の盛衰に翻弄されてはかなく消える。せめて歌人として末代にまでわが名を、わが生の証を残したいという、まさに執念のような強い思いが伝わってくる。
坂東武士岡部忠澄は平家の御大将を討ち取ったりと得意満面だったが、のちに己が在所深谷の清心寺に忠度の供養塔を建てた。心ある業である。
忠度と忠澄が組み討ちをした際、上になった忠度を忠澄の郎党が背後から襲い掛かり、忠度の右腕を切り落とした。それがため死を覚悟した忠度は西方へ向かい暫し念仏を唱えた後、忠澄によって首を刎ねられるにまかせた。その「腕塚」というのが神戸市長田区駒ケ林にある。地下鉄海岸線駒ケ林駅の近くである。
 
謡曲の会場から10分ほど歩いて鮨処「真砂」に上り、忘年と慰労の会を開く。それに参加して昼間から温かい鍋と清酒「白鶴」を戴く。
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2018年01月15日

[vol.15]木曜会

木曜会といえば漱石山房。わたしたちも、じつは木曜会を開いている。ただし元祖とはかなり違う。小宮豊隆、鈴木三重吉、森田草平に始まって内田百閨A芥川龍之介、久米正雄ら錚々たる文人墨客、学徒らが毎週木曜日の午後3時に漱石山房に集り、師弟ともども談論に興じるというのが元祖のそれ。われわれのは会員わずか3人。毎週ではなく年に何回か木曜日に梅田のビルの一室に集まって、漱石の作品を題材にあれこれ喋々喃々するだけのもの。木曜日と漱石の作品が題材というだけの繋がりで木曜会を僭称しているだけに過ぎない。

もう3年になる。言い出しっぺはK先輩。魯迅の研究者で長年大学で中国文学を講じてきたが、一方、創作家でもあり、中央の大手出版社から既に2冊のエンタテインメント小説を刊行している。わたしたちの上の世代に多い漱石愛好家でもある。
いま一人はオーストリア中世、近代の作品研究を課題としつつ、これまた長年学究生活を送ってきた仁。
残る一人のわたしは、前者二人の驥尾に付して漱石学を学ぶ初心者。漱石を知らずして文学を喋々するわけにもゆくまいという思いから、参加させてもらっている。

漱石は英文学研究の途を捨てて朝日新聞社に入社し、作家生活をスタートさせた。以後新聞紙上を借りて広く江湖に意を問うこととなる。明治人の常で、漱石も日本社会の急速な近代化、西欧化の中でその精神的基盤をどこに置くか、普請中、いや改造中のわが家屋のどこを己が私室とするか、苦慮したはずである。

たとえば漱石の作品に頻出する「高等遊民」という存在などはその「苦慮」のあり方の一つであり、いまなお読む者の興味を引くものながら、しかし実体として読者に迫ってくる迫力は乏しいのではないか、と言わざるを得ない。それは当時と現代との時代の差だけによるものではなく、その描かれ方自体がきわめて曖昧で実態を伴なうものになっていないからである。彼らは霞を食って生きているとしか思えないほど、どう読んでもその経済的基盤が薄く乏しく思われる。つまり彼らは実体のある市民として生きていないのである。そのことが各作品を(健全な)市民小説として成立させることに失敗している。せっかく新聞小説という場、広い読者層(市民)を与えられながら、それを生かすことを怠っている――そうみえる。
『彼岸過迄』(明治45年)の松本、須永にしろ、『こころ』(大正3年)の先生にしろ、そうである。市民小説として成立しそうな塩梅になるのは、やっと『明暗』(大正5年)になってからである。各登場人物が一個の人間として動き始める。

住処を普請したり改造したりすればいったいどれほどの銭が要るのか、つまり急速な近代化の中で市民小説を構築するにはどれほどの(精神的)銭が要るのか、それをきちんと認識すれば、巷へ稼ぎに出掛けるのは避けられないこと自明である。それを書く。あれこれ悩むのは帰宅後でよい。それが健全な市民生活というものであり、そうしてあれば日夜神経衰弱に悩まされることもなくなる。そういう日常を活写すれば市民小説誕生となる。

こういう駄弁を具申して魯迅研究家にして作家のK氏を呆れさせ、「帰る」というのを見送り、残った二人は梅田の駅前第一ビル地階の一杯飲み屋でビールで喉を湿らせる、これがわが木曜会の毎回のパターンである。
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2018年01月01日

[vol.14]金沢で飲みつつ学ぶ

金沢が遠くなった。
特急電車で2時間半。だから道は決して遠くはない。ただ北陸新幹線の開通以来、なんとなく足が遠のく思いがするのだ。新幹線で東京から2時間半、東都の閑人階級が大挙押し寄せ、一段と観光都市化した。金沢にとっては好いことだろうが、こちらは困る。とにかく宿の確保が厳しくなった。それもあって、これまでは関西の奥座敷として心おきなく出かけられたのに、それがそうでなくなった。

新幹線で襲来する東夷に荒らされる前に、ということで、仲間4人と徒党を組んで出かけたのが3年前の12月。その中に金沢の名家出身の人間がいて、その顔でまず「つば甚」で夕食、そのあと香林坊のクラブで酒池(まで。肉林はナシ)、翌日の昼は小松弥助で鮨、という豪遊をした。

それでしばらくは足が遠のいていたが、つい先日、また金沢へ行って来た。3年前を思い出したから、ではない。

本邦に「日本グリルパルツァ―協会」と称する小規模な研究会がある。毎年1回12月に例会を開き、会員相互が研究報告をする。これまでは京都が会場になることが多かったが、今年(2017年)は趣向を変えて金沢で、ということになった。ちなみに今年の研究発表の題目を上げておこう。
@「セラピーとしての夢――カルデロン、グリルパルツァ―、ホフマンスタール」、
A「グリルパルツァ―と中世――自己省察としての中世理解――」。
なにやら難しい。

昼の部は石川四高記念文化交流館の1室で2時から5時まで開催。夜の部の会場は香林坊の酒亭「くぼ田」。四高記念館とは指呼の間である。出席者のほとんど(といっても約20名)がそろって第2会場へ移動する。

この「くぼ田」、格式から言えば居酒屋以上料亭以下という態、貧乏学徒には嬉しい場である。もちろん日本海の冬の味覚、ブリ、香箱蟹を適価で提供してくれる。酒は店名と同じ「久保田」以下、能登の地酒が何本も用意されている。その中に「獅子吼」なる銘のものがあるのは、昼の会場での論戦だけでは収まらぬ諸公よ、続きはこれを飲みかつ酩酊し、もって獅子のごとく吼えるべしとの(幹事の)底意ならむ。

さて、グリルパルツァ―とは何者ぞ。僭越ながら、19世紀のウィーンで活躍した作家、劇作家と紹介しておこう。短篇小説『ウィーンの辻音楽師』は本邦でもよく知られているところ。良家の生まれながら身を持ち崩して市井に隠れ住む老音楽師のはかない恋の思い出と死を描く。この作品、しばしば「哀愁を帯びた」などという形容辞をつけて紹介されるが、いや、作調はむしろ暗く、重く、やりきれない。同時代のフランス小説は、たとえ暗い主題でもエスプリが利かされていて、重く淀まない。ウィンナワルツはいかに軽やかに演奏されても、下町情緒を小粋に掬い上げるミュゼットのひと節には敵わないのだ。

「くぼ田」のあと、有志三人で近所の欧風食堂「る・まるす」で仕上げのビールを飲み、研究会終了とする。それでも12時前にはホテルに帰り着く。

ひょっとしたら雪に遭うかもしれぬと厚着をして出かけたのだが、一泊二日の両日とも予想外に暖かい日和だった。

街で行きかう人の中に幾度となく坂東訛りを聞きつけて、古都金沢もいまに東夷の大都の荒波にのみ込まれむと、余計な心配をしつつ大阪へ戻って来た。
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