2017年10月01日

[vol.8]月光

その絵はそれほど大きくない。縦60cm.横40cm.くらいの長方形をしている。油彩ではない。パステルでデッサンした上に水彩で色づけされている。単調なくすんだ黄土色一色である。

描かれているのは佇立する一人の兵士である。長靴を履き頭からすっぽり風防コートを着て腰を締めている。わずかに覗く横顔はまだ若い。階級はわからない。下士官だろうか、見習士官だろうか。そしていま彼は歩哨として陣営の見張りに立っているのか。彼の身の他は背景も左右も一切描かれていないから、わからない。

絵の題は「月光」である。そういえば夜間淡い月の光を浴びて佇立する見張り兵とみえないこともない。目深にかぶったフードに隠されたその顔は、緊張と諦念と、また安らぎとにおおわれている。

この人物は、もっと多くの人物が登場する――おそらくは戦争画――の構成部分の一つで、その習作として描かれたものであったように思われる。ただこれを含む一枚の絵全体は描かれずに終わった。いや、描かれたとしても残っていない。

作者が一枚の戦争画をどのような意図でもって描こうとしたか、必ずしも明確ではないが、いま残されているその一部分の絵の中の彼は、自分はいま愛する者を護ろうとして銃を取ったのだとだけ思おうとしている、無表情を装いつつただそれだけを思おうとしている、淡い月の光の中で――そのように思われる。
 
小磯良平美術館は六甲ライナーで六甲島に渡った最初の駅のすぐ近くにある。小規模だがモダンな建物で、中庭にはかつて使っていたアトリエが移築され、公開されている。明治末から昭和の初期にかけて港町神戸には西欧の近代文明を取り入れたモダニズム文化が花咲き、多くの音楽家、画家、文人が集い、その粋を発信した。小磯良平はその一人である。他に詩人竹中郁、音楽家近衛秀麿、山田耕作、貴志康一、諏訪根自子、レオ・シロタ、エマヌエル・メッテル、アレクサンデル・モギレフスキーら数多い。この人たちが集住したのが「深江文化村」。芦屋川西岸の河口から深江浜にかけての一帯である。戦災と震災のために、いまはもう見る影もないが、いずれその探訪記をお目に掛けたいと思っている。

小磯はいかにも東京美術学校出身者らしい適確なデッサンに基礎を置く端正な筆致の、そして暖かい色彩に溢れた絵を描いた。その対象は身辺の人たちの肖像、その人たちが住みなす住居の室内と静物、周辺の風景などである。私小説風の小世界といってもよい。それがハイカラなのは、モダニズムの画家がその目に捉えたモダン都市神戸の景観だからである。

そこには家族愛、友人愛、人間愛が横溢している。悲しみはない。あってもあたたかい色調に取り込められている。怒りはない。恨みもない。妬みもない。それに相応するかのような2年間のフランス留学、戦後の東京芸大教授職、文化勲章受勲と続く順風満帆の人生行路。

でありながら、「月光」の若い兵士には、そうした恵まれた彼にも捉え得た人生の厳しい側面――といって語弊があるなら、人間誰もが人生のある一点で持つ生真面目な表情、覚悟といったものが表示されているように思われる。若者が、周囲の愛情を一身に受ける身でありながら、神の気まぐれによって決死の場に乗り出す、乗り出さずにはおれぬ場で見せる覚悟である。それが眼元のあたりに見て取れる。

六甲ライナーで魚崎まで帰り、阪神電車に乗り換えて芦屋へ。駅のすぐ近くのイタリアレストランGに坐る。ここは瀬戸内の魚介類をうまくイタリア風に調理してくれる店であるが、今日はムール貝やウニ、生ハムなどを使った前菜をシチリア産の白ワインで楽しんだのち、ナスとムール貝のパスタ、アサリのリゾットで仕上げする。いずれも美味。

上り線の駅東口を出て線路沿いに東へ坂を降りた左側。訪ねてみられよ。
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2017年09月15日

[vol.7]バウムクーヘン

神戸元町にユーハイムという洋菓子店がある。ここの売り物はドイツ菓子の定番バウムクーヘンで、何でも1919年(大正8年)にそれを日本で最初に作って売り出した店であるらしい。初代はカール・ユーハイムというドイツ人である。神戸に来る前は横浜にいた。関東大震災で焼け出されて神戸に移り、店を出した。横浜の前は中国の青島にいた。ところが第一次世界大戦で日本軍の捕虜となり、日本へ連れられて来た。そういう身の上である。初代以来ずっと神戸に住みついて,バウムクーへンその他の洋菓子を作り続けている。
いつ頃になるだろう。それもはっきり覚えないが、もとより戦後で、かれこれ十年前ぐらいにはなるだろう。神戸のドイツ系のお菓子の製造会社から、誕生日のお祝いとしてお菓子の小包がとどいた。添えられた手紙では、私が健康で仕事をつづけているのが祝福され、従業員一同の名前になっているが、それがまた日本流の、とはいえこの頃では珍しい巻紙で、筆のあとも達者な本格的なものであるのに私はいよいよびっくりし、開けてみると、中味はドイツ流の「バウムクーヘン」であった。
(野上彌生子『バウムクーヘンの話』)

彌生子女史の長男素一氏は京大のイタリア文学の教授だった。昔むかしその講筵に列したことがある。春風駘蕩たる風貌ならびに口跡は、他の教授らの熾烈な演習授業の間にあって恰好の逃避所となった。氏の朝食のパンは神戸フロインドリーブ店のもの、との噂だった。当時京都から見ると神戸はすこぶるハイカラな都会だった。フロインドリーブと聞いただけで、北白川の教授宅の朝の食卓の馥郁たる雰囲気が偲ばれた。

回顧談はさておこう。いや、もっと古い話になる。地中海域の人々は早くからパンを食べていた。ミノア文明の中心地クレタ島の遺跡からの出土品にパン焼き窯(イプノスという)があることからも、それは知られる。パンの種類は多種多様である。豆パン、ナストス、削りパン、高椅子、バッキュロス、炙り焼きパン、二度焼き、アタビュリテス、アカイネ、オベリアス、クリバノス、灰焼きパン、揚げパン、チーズパン、胡麻パン、などなど。いずれも形状、製法、性質、内容による名称と思われるが、名前を聞いてもよくわからないものもある。

上の中にオべリアスとある。これに注目あれ。物の本によると、これは串(オベリスコス)に刺して焼かれるところからその名が由来したとのことである(ユリウス・ポルクス『辞林』)。串といっても太く長い。棒といったほうがよいくらいだ。壺絵に描かれたのを見ると、1メートルほどの棒に捏ねた小麦粉を巻きつけて焼いたのを2人がかりで担いでいる。小さいもので重さ26キログラム、重いものになると79キログラムになったという。オーブンにはとても入らない。串、いや棒に捏ねた小麦粉を巻きつけて、直火の上をぐるぐる回しながら焼いたのである。

これぞバウムクーヘンの原型ならん。そう思ってよいだろう。芯棒に捏ねた小麦粉を塗り付けて焼き、焦げ目がつくとその上にまた塗りつけて焼く。それを繰り返せば、輪切りにしたとき木(バウム)の年輪状の模様が付いた菓子パン(クーヘン)が出来上がる。

ドイツ生まれのバウムクーヘンが古代ギリシアのオベリアスの直系か否か、不明である。しかしこの両者にはかなりの程度の近親関係がある、あるのではないかと思わせる。それかあらぬか、3、4年前菓子舗ユーハイムでは古代ギリシアのオベリアスを現代風に再現した製品を発表した。意識した上での仕事だろう。

神戸大丸(デパート)の西向かい、南京町に近いところにユーハイムの本店がある。JR三ノ宮駅前のそごうデパートの地階にもユーハイムの販売店舗がある。ここにもバウムクーヘンはある。甘党諸氏はもちろんのこと、とにかく興味ある方々はぜひとも寄ってみられたい。一切れ頬張れば古代地中海の爽やかな海風が口一杯に広がるだろう。
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2017年09月01日

[vol.6]芙美子哀しや

西欧の食膳に章魚が上ることはまずない、とされる。しかしそれはアルプス以北の西ヨーロッパでの話であって、アルプス以南、ことに地中海域では紀元前の時代から現代に至るまで、章魚は庶民の食の友である。

四方を海に囲まれたわが国では、もちろん章魚は食材として早くから馴染み深い。刺身、酢の物、煮物、揚げ物と多種多様な料理に用いられる。米と一緒に炊き込んだタコ飯なるものもある。

「こりゃ、まあ、景色のよかとこじゃ」
手拭いでハタハタと髷の上の薄い埃を払いながら、眼を細めて、母は海を見た。
私は蓮根の天麩羅を食うてしまって、雁木の上の露店で、プチプチ章魚の足を揚げている、揚物屋の婆さんの手元を見ていた。
「いやしかのう、この子は……腹がばりさけても知らんぞ」
「章魚の足が食いたかなァ」
「何を云いなはると!お父さんやおッ母さんが、こぎゃん貧乏しよるとが判らんとな!」
遠いところで、父の風琴が風に吹かれている。
「汽車に乗ったら、又よかもの食わしてやるけん……」
「いんにゃ、章魚が食いたか!」
(林芙美子『風琴と魚の町』)


揚げた章魚の足を食べたがる女の子。文中の「私」には作者林芙美子の幼い少女時代の姿が投影されているだろう。「町」は尾道である。親子三人、北九州から流れて来た。赤貧洗うがごとき行商生活の一場面である。

「私」は両親とともにそのまま尾道に居つき、才能を愛でてくれる人を得て高等女学校へ進学する。生活の苦労はその後もまだ続くが、やがてその才能は人気女流作家として開花する。

少女の「私」が無性に欲しがった章魚の足を、百年後、いまの子供たちは造作もなく手に入れる。茹でて細かく刻んだものをメリケン粉に絡めて球形状に焼き、ソースやマヨネーズを塗りつけ、粉状の青海苔を振り掛けて食す。そう、タコ焼きである。関西では一般家庭の各戸にほぼ漏れなくタコ焼き器具が備わっているから、誰しも生後3年にしてすでにその味を覚える。

西日本には播磨の国明石や備前下津井など、章魚の産地は多い。子供や婦女子は、章魚といえばなんといってもまずタコ焼きだが、成年男子はこれを茹でて三杯酢に漬け、酒の肴にする。春先は鰆の刺身、初夏になるとこの章魚の酢の物が瀬戸内沿いの町の酒好きたちを喜ばせる。高校生くらいになると父親の晩酌の相手をしながら、この章魚の味を覚える。たいてい皆そうである。

ところで明石焼きをご存じだろうか。タコ焼きの一変種である。章魚を入れた球形状のメリケン粉の焼玉を作り上げるまでは同じだが、これを出汁に浸して食す。そうすると、あら不思議、青海苔、ソース、マヨネーズたっぷりの庶民性がすっと消えて、高級和食の一品のような品格を漂わす。味もちょっと乙な味わいに変わる。

これはその名のとおり明石が本場である。明石の町の魚の棚商店街の両脇に多数の専門店が点在する。お薦めは、しかしそこではない。商店街の中ほどを南に折れ、20メートルくらい行くと左手に「明石焼U」がある。せっかく明石まで出向くのだ、食べるならここに決められよ。

筆者が初めて明石焼きを食したのは大阪梅田の阪急東商店街でのことだった。のちにさるところで「古代ギリシアの食文化」なるゼミを担当したとき、毎年夏学期の修了時にゼミ生全員で明石まで出向き、本場の味を堪能したものである。古代ギリシアでは、いまでもそうだが、章魚は早くから庶民の口を賑わせていた。かくしてエーゲ海と瀬戸内海、両者は章魚で繋がる。

余談ながら、阪急東商店街で明石焼きを最初に味わわせてくれた人は、その後しばらくして黙って家を出て行き、それきり帰って来なかった。
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