2018年04月01日

[vol.20]カサブランカ

京都の老舗旅館「柊家」で夕食を取る機会があった。「では二次会に」と連れて行かれたのが、近くの「フォーチュン・ガーデン」というカフェレストラン(いや、ビストロというべきか)だった。聞いたことの無い名前だな、と思いながらついて行くと市役所北の建物である。入口の階段を2、3段上がって中へ入る。まてよ、これは島津製作所の本社屋ではないか。

そのとおり。かつてこの建物は島津の旧本社屋だった。学生の頃、東大路通りを南下したデモ隊は祇園石段下と四条河原町交差点で渦巻きデモを敢行し、それから河原町通りを北上して市役所前広場に至り、そこで府学連委員長の総括演説を聞いたのち解散――というのが定例だった。解散後はデモ仲間と三条河原町の通りに面した2階の「さくら食堂」へ上がってカレーライスを食った。空きっ腹にはいかなる山海の珍味よりも美味と思われた。市役所の北は、南側の三条、四条のような盛り場ではない。腹をすかせたデモ学生を歓迎する食堂などはなかった。島津の旧本社屋も市電の窓から眺めるだけのものだった。

堅牢な白い石造りの4階建ての建物で、歩道から2、3段上がらぬと1階のフロアに到達できない。風格がある。理科の機械、装置の製造と販売を本業とする会社だから、文系学生には当面、いやこの先もずっと縁がない。縁も馴染みも無いだけに、却ってその風采は威風堂々として見えた、その頃は。いや、いまでも。

むかし「カサブランカ」という映画があった。ハンフリ・ボガートとイングリッド・バーグマン共演のメロドラマ、ただし訳あり同士の男と女のメロドラマである。男はスペイン内戦で人民戦線政府側に肩入れした前歴があり、女はナチスに追われて逃げ回る平和運動家の妻という設定。二人はパリで出会い恋に落ちるが、パリ陥落時に離れ離れとなり、北アフリカ、モロッコの町カサブランカで再会する。それも男リックが経営するカフェレストラン「カフェ・アメリカン」で。

女は夫、ナチスに追われる平和運動家ラズロと一緒に来店する、パリ時代の恋人の店とも知らずに。白いスーツと白い婦人服をりゅうと着こなした二人に逃亡生活のやつれはない。注文はコアントロー。ピアノ弾きの黒人サムが請われるままに思い出の曲「時の過ぎゆくままに」を弾く。聞きとがめるリック。サムは目顔でかつての恋人の来訪を告げる……。

映画の制作年は1942年。第二次世界大戦当時ヨーロッパからアメリカへ渡るにはカサブランカからリスボン経由でというのが有力なルートだった、という設定。いきおいカサブランカはヨーロッパ各地からの「逃亡者」で満ち溢れる。リック自身が祖国アメリカを追われたさすらいのお尋ね者、「逃亡者」であり、平和運動家ラズロ夫妻もナチスに追われてヨーロッパを脱出する「逃亡者」だった。

同じ「逃亡者」ながら、リックがラズロ夫妻に通行証を譲ってリスボン行の飛行機に乗せるという結末の一場面はメロドラマの極ともいえ、それが見る者を辟易させるのだが、訳知り顔に涙腺を慌てて締めるのは芸術家(?!)の仕掛けに素直に反応できない芸術不感症患者の愚行ともいうべきで、一か所でも耽溺できる箇所があれば喜んで耽溺するのが、おそらく無上の芸術鑑賞(作法)なのである。それはともかく、後に残ったリックにはなお安住の地はなさそうで、まだしばらくは逃亡生活を続けなければならない。

そもそも1942年という年にこれほどの自国讃歌を歌い上げるアメリカ人の自信と気楽さは、なんだか恐ろしい気もする。

誤解を承知で言うのだが、「フォーチュン・ガーデン」、いや、旧島津製作所本社屋はリックの店「カフェ・アメリカン」に似ている。1階の広い屋内、高い天井、そこで緩やかに回転している空気攪拌機の羽根、お暗い店内の各テーブル上でオレンジ色の灯りを落としているスタンド、向こうの隅に見えるカウンター席。サムのピアノ演奏はないが、何かしら曲が低く鳴っている。警察署長もドイツ軍将校も来ていない。ルーレットが廻る奥の部屋もなさそうだ。しかし――

コアントローの代りに白ワインを注文し、暫し未踏の地カサブランカを夢想する。それだけである。
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2018年03月15日

[vol.19]われても末に

神戸の阪急三宮駅東口を出て北野坂を北上すると、異人館街に到達する。その手前を東に折れ、徒歩1分、北側のマンション1階に「菱花」というカフェサロンがある。テーブル2、3脚とカウンターだけの狭い店だが、美味いコーヒーを飲ませる。カレーなどの軽食もある。店仕舞いが8時だから、原則として酒類はおいていない。

郷里の中学校の同級生で関西在住の者が毎年1回寄り合う会がある。総勢10名前後の小さな集まりである。その世話人でかつて商社マンだった男が、たまたま(らしい。なぜなら彼は豊中の住人だから)そこに立ち寄って気に入ったらしい。筆者にも「一度行ってみろ」というので、某日思い切って北野坂を上って行った。

難なく見つけてドアを押す。中は広くない。立派なカウンターがグッと出っ張るような感じで、恐らく以前はバーかスナックだったのを、喫茶店に転用した――どうもそんな雰囲気である。客はいなかった。同行の友人(上の同級生とは別の飲み友達)とテーブルに席をとる――と、出てきたマダムを見て驚いた。

15、6年前のことだ。阪急御影駅の近くのレストラン「蘇州園」での会合からの帰り道、御影駅改札口正面のビルの2階に飛び込んだ。「京風おでん」の看板に釣られてのことである。先の店で下地ができていたのに、いやそのせいで、さらに飲む量がずいぶんと進んだ。勘定のあと、貰ったマッチを見ると「菱花」とある。それを機会にそれからもちょくちょく通った。酒は大銘柄のものではなく、魚崎郷の中小の醸造場のものを多く置いていたように思う。「桜正宗」、「浜福鶴」、「泉正宗」、「福寿」などである。ところが、ある時行ってみると灯は消えて店仕舞いしていた。あっけない幕切れだった。

その時の女将がいま目の前にいる。テーブルの上にあるのはコーヒーカップだ。「あれからいろいろあって……」――話を聞きながらコーヒーを啜る。彼女は詩文を書くのが好きで(現に関西詩人協会会員)何冊か著書も出版しているが、
ようこそ/おいでやす/駒子が笑う/ようこそ/おいでやす/藍/駒子の着物

――こんな短い詩を書く――
昨今は店にファンを集めてシャンソンの会やら小唄の会などを催しているという。「あれから何がどうなったのか」、こちらは別に詳しく聞きただすこともなくコーヒーを飲み、「たいへんだったんですねえ」と言い、再会を約して店を出る。

古歌にあるように、「われても末に」思いがけず遭ったのだけれども、――ただそれだけのことで、こんなことはよくある話かもしれない。

陽が六甲の向こうに落ちる夕刻、飲み損ねたわれらは北野坂を下って来て、横道に逸れ、同行の友人が案内するおでんの店「たばる坂」に寄る。ここは質量値段とも言うこと無し、推奨できる。諸兄も三宮で飲みたくなったら、一度どうぞ。

さらにそのあと行きつけの鮨処、住吉の「真砂」でビールを飲み、帰宅。
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2018年03月01日

[vol.18]ある親爺の死

クセノポンに『アナバシス(一万人の退却)』という著作がある。前5世紀の末の頃、ペルシア王室の内紛に乗じてギリシアが出兵したことがある。しかし事はうまく進まず、けっきょく派遣軍は退却を余儀なくさせられる。その出兵と退却に伴う軍の諸相を忠実に記録したのが上記の書である。遠征軍の将が語る戦事の実録ルポルタージュといってよい。

クセノポンはソクラテスに師事した哲学徒で、プラトンの同窓生だった。それが妙なことからペルシア派遣軍に関わった。そしてその時のことを克明に書き記した。その中にこういう一節がある。

そこで直ぐにその二人を連れてこさせて、今見えている道のほかに別の道を知らぬかどうか、別々に尋問した。その一人は、さまざまな威嚇を加えられながらも、知らぬと言った。その男は何一つ役立つことを言わぬので、もう一人の男の面前で斬殺された。もう一人の捕虜の言うところでは、先の男には行く先の土地に嫁いで、夫と暮している娘があるために、知らぬと言ったのだという。
(クセノポン『アナバシス』4,1、松平千秋訳、筑摩書房)


退却するギリシア軍が小アジアで現地人二人を捕えて道案内をさせたときの話である。
不用意に口を開くと娘はギリシア兵らの略奪と凌辱の対象になるかもしれない。娘の身の上を慮った一人は沈黙を押し通したあげく死に至る。その死は、娘という愛の対象を護るために自らを犠牲に供した身代わりの死であるといってよい。

ギリシア悲劇によく出て来るのは、国家や民族のために、あるいは自らの信念のために我が身を捧げる死である。たとえばアンティゴネがそうである。彼女は国法よりも神の法(古くから人間生活を律する不文律)を重んじて国法に逆らい、死に赴くことになる(ソポクレス『アンティゴネ』)。

件の親爺の死は、そういう理念あるいは抽象概念のための死ではなく、娘という具体物のための身代わりの死である。このような死は小アジアに限らず、内戦中の前5世紀後半のギリシア本土でも数多くあったはずである。そして人間の生と死を的確に描き出すことを目的とする文芸家(文筆を以て芸術表現を志す人士)にとっては、これぞまさに恰好の題材となるはずのものだったと思われる。

文芸作家ではないクセノポンは事実をただ事実として記録し、報告した。それはそれでよい。一方当時アテナイには、ディオニュソス劇場を使って人間の諸相を描出する劇詩人がいたはずである。ところが彼らはこうした一般個人の死を取り上げて世に伝える術を持っていなかった。最も革新的だったエウリピデスでさえ成し得なかった。「無名の個人の死」は神話伝承を素材とするギリシア悲劇にそぐわず、親爺の「沈黙」は言語芸術である演劇の舞台に合わなかったのである。

親爺の死のような無名の個人の死、それでいて文芸上小さからぬ意味をもつはずの死は、ホメロス以来の朗誦の対象にもならないし、そうかといってデイオニュソス劇場の舞台に掛けられるものでもない。おそらくそれは各個人が各自に持つ「読書」という手段によってしか受容され得ないものであろう。

従来の朗誦や演劇に代わって「読書」という受容形態が登場するのは紀元前後の頃である。親爺には、それまで待っていてもらわねばならない。

今宵の晩酌2合の酒は、まずはあの親爺への献杯から始まる。
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