2017年07月15日

御影公会堂

昭和20年6月5日、アメリカ空軍のB29爆撃機300余機が神戸に来襲し、神戸の街は完全に焼け落ちた。このとき旧制中学の生徒だった野坂昭如は、ほぼ20年後に、降りくる焼夷弾の中を幼い妹を連れて逃げ回ったその体験を一篇の物語に仕上げた。『火垂るの墓』である。
作中の少年清太は神戸の東部、御影の町で罹災する。

「よっしゃ、おんぶし」節子を堤防にすわらせ、清太が背をむけるとのしかかってきて、逃げるときはまるで覚えなかったのにズシリと重く、草の根たよりに堤防を這いずり上る。
上ってみると御影第一第二国民学校御影公会堂がこっちへ歩いてきたみたいに近くみえ、酒蔵も兵隊のいたバラックも、さらに消防署松林すべて失せて阪神電車の土手がすぐそこ、国道に電車三台つながって往生しとるし、上り坂のまま焼け跡は六甲山の麓まで続くようにみえ、その果ては煙にかすむ、
(野坂昭如『アメリカひじき 火垂るの墓』新潮文庫、16頁)

 
空襲下、病身だった母とは死に別れ、清太は節子を連れて西宮の満池谷まで遠縁を頼って逃げて行く。が、そこも安住の地ではない。追い出されるようにして近くの防空壕用の横穴に移り、生きるために喰い物を求めて奮闘するが、ついに力尽きる。節子が死ぬ。それを一人で火葬に付し、蛍が群舞するなか遺骨を拾う。ほどなくして清太も国鉄三宮駅構内で命絶える。二人とも栄養失調による衰弱死だった。

むしろもかけられず、区役所から引き取りにくるまでそのままの清太の死体の横の[……]ドロップの缶もて余したようにふると、カラカラと鳴り、駅員はモーションつけて駅前の焼跡、すでに夏草しげく生えたあたりの暗がりへほうり投げ、落ちた拍子にそのふたがとれて、白い粉がこぼれ、ちいさい骨のかけらが三つころげ、草に宿っていた蛍が驚いて二、三十あわただしく点滅しながらとびかい、やがて静まる。
(同上、11〜12頁)


阪神青木駅から神戸高速行き各停に乗り、石屋川駅下車。12,3分ほどの乗車である。
駅から北へ石屋川沿いに5分も歩くと国道2号線に出る。真向かいに御影公会堂がある。戦災にも震災にも耐え、創建時(1933年)のままの姿である。ただ修復には入念で、この3月に最新の工事が終わったばかりだ。
地下に食堂がある。ハヤシライスとビールを注文し、ひと息つく。ここのオムライスが有名と聞いたが、いや、ハヤシライスこそ看板メニューだとの古くからの説もある。
いずれにしても三ツ星、四ツ星の世界ではない。素朴な町の食堂、いや、昔デパートの上階にあった大食堂の小型版、といった感じである。
この建物、清酒「白鶴」醸造元の嘉納家の寄付によって建てられたという。あの講道館の主、嘉納治五郎の一族である。とすれば、ビールではなく清酒「白鶴」を注文するべきであったか。

神戸空襲からほぼ3週間のち、ここより西の瀬戸内海沿いの町岡山が同じくB29に爆撃されて炎上した。6月29日未明のことである。遠く東京から疎開してきていた永井荷風がこれに遭遇した。やや時を置いて8月に荷風は、これも疎開してきていた谷崎潤一郎を訪ねて県北の真庭郡勝山町へ行き、一夜歓談している。

この岡山への空襲は筆者も体験した。母親に手を引かれて逃げ惑う道すがら、県立第2中学校の校庭に雨霰と降りくる焼夷弾の曳光が今も目に鮮やかである。節子と同じ年頃だった。
posted by 出町 柳 at 10:00| Comment(0) | 読む・歩く・飲む

2017年06月22日

コルマールからリヨンへ

コルマールのウンターリンデン美術館でグリューネヴァルトの「イーゼンハイムの祭壇画」を見たあと、リヨンへ向かう。絵は期待していたほどの迫力は感じられない。
見たい見たいという思い込みが強すぎたのか。かつて疫病に悩んだ人々のこの絵に籠めた祈りと願いが、平和に慣れたわれらにはもはや届かないのか。

美術館脇のレストランでエスカルゴを白ワインで味わう。美味。南フランスでは休日になると家族総出でエスカルゴを取るために田園に出かけるものだと、昔聞いたことがある。1週間ほど泥を吐かせてから食用にするのだと。それはともかく南ドイツ風の木組みの家並みを眺めながら、一路リヨンへ。

昭和20年3月の東京大空襲のあと、永井壮吉は帝都を捨てて西に逃れ、兵庫の明石を経て備前岡山の地にたどり着いた。市内を南北に貫いて旭川という川が流れている。それに架かる京橋の欄干に倚り川面を眺めているうちに、遥か昔、おなじく橋上から川面を眺めた異郷の地を思い出す。

まず電車にて京橋に至る、欄に倚りて眺るに右岸には数丁にわたりて石段あり、帆船自動船輻湊す、瀬戸内の諸港に通う汽船の桟橋あり、往年見たりし仏國ソーン河畔の光景を想い起さしむ。
(『断腸亭日乗』)


ソーヌ(=ソーン)川はフランス中東部の町リヨンを流れる川である。リヨンは東西をローヌ川とソーヌ川とに挟まれた細長い土地にできた町である。両川は町の南で合流する。

ここに戦前、といっても明治の頃、横浜正金銀行の支店があり、永井壮吉すなわち後の荷風散人がこれに勤めていた。ただしごく短期間である。1907年(明治40年)夏、アメリカから渡って来て支店職員となるも、翌1908年3月には辞職し、そのままロンドン経由で帰国している。20歳代後半のその目に捉えられたリヨンの街、そしてソーヌ川のたたずまいが、38年を経たのち戦火に怯える東洋の小都市で想起される。ただソーヌ川の水は深緑色、両岸の木立も新緑の季節といえどその緑は濃く、5月の陽光の下にあってもその明るさは瀬戸内の町岡山の地中海風の抜けるように透明な明るさとはいささか異なる。荷風の目を捉えたのは川船の数とそのたたずまいだったろうか。

荷風の時よりも6年後、その京橋の袂から教師に引率された小学生の一団が蒸気船に乗って川を下り、瀬戸内の島まで海水浴に出かけた。そしてまた荷風の時より110年後、海水浴に出かけたかつての少年は、ソーヌ河岸に至れども川を船で下ることはせず、川を西へ渡って丘の上の古代ローマ劇場跡を訪ねた。

リヨン市役所前から大通りを南下するとベルクール広場へ行き着く。この広場の西南の端にあの『星の王子さま』のサン=テグジュペリ像が建っている。すぐ近くに生家もある。そのまたすぐ近くに「昭和の文豪」と巷間その名も高い作家遠藤周作氏のリヨン大学留学時の下宿がある。彼の母校(旧制私立灘中学)の地元の人間として不埒極まることかもしれないが、その傑作を一作たりとも読んだことがないわが身は、リヨンの旧居もただ遠くより遥拝するだけにとどめておく。

昼も夜も食事はワインに始まりワインに終わる。まさにワイン三昧である。ただアテとなる肴、すなわち料理はけっして旨くはない。市役所前から大通りを少し南下したところにあるレストラン『ル・ノール(北方亭)』で魚料理らしき料理は食べたが、どうもいま一つ。せめて南ドイツでは常食の焼いた川鱒でもあれば……と、甲斐なき思いを呟くばかり。ヨーロッパの食事はアルプス以南に行かぬとどうしようもない、と実感する。
posted by 出町 柳 at 15:33| Comment(0) | 読む・歩く・飲む

2017年05月24日

ストラスブールまで

牛に曳かれてもせいぜい信濃の善光寺あたりまでだが、このたびは家人に引っ張りまわされてフランスのブルゴーニュまで行ってきた。ワインを飲み歩く旅である。

羽田から飛行機でパリ、パリからランス、ランスからストラスブール、コルマール、リヨンまでバスで走る一週間。

アルプス以北のヨーロッパでは、五月は春たけなわ。並木道のマロニエが白と赤の花を付け、桐は薄紫に咲き誇り、葡萄畑の葡萄は黄緑色の葉と蔓を延ばしている。好天に恵まれ、行程の最後に戻って来たパリでは、なんと気温は二十八度を記録していた。

このあたりは古代ローマ時代から開けたところで、ストラスブールは古名をアルゲントラートゥスといい、四世紀半ばには司教座教会が置かれるほどの由緒ある町だった。いや、それは知らんという人も、ここが独仏の領土争いの地であったこと、シュトラースブルクというドイツ風の名で呼ばれることもたびたびあったことは、よく知るところではなかろうか。ここを舞台にしたアルフォンス・ドーデーの『最後の授業』という掌篇小説のことも。

この小説が描くのはストラスブール近郊の一小学生フランツの眼を通して捉えられたフランス語の最後の授業の様子である。なぜ最後か。普仏戦争(一八七〇〜七一年)に敗れたフランスはアルザス・ロレーヌ地方をプロシア(ドイツ)に割譲した。その結果、「アルザスの学校では明日からフランス語に代えてドイツ語を学ぶべし」との通達がベルリンからもたらされたのだ。言語と民族という重い主題が、小学生の眼を通して展開される。

私がこんなことにびっくりしている間に、アメル先生は教壇に上り、私を迎えたと同じ優しい重味のある声で、私たちに話した。
『みなさん、私が授業をするのはこれが最後(おしまい)です。アルザスとロレーヌの学校では、ドイツ語しか教えてはいけないという命令が、ベルリンから来ました…… 新しい先生が明日見えます。今日はフランス語の最後のおけいこです、どうかよく注意してください。』
この言葉は私の気を転倒させた。ああ、ひどい人たちだ。役場に掲示してあったのはこれだったのだ。
フランス語の最後の授業………
(桜田 佐訳『月曜物語』所収、岩波文庫)


支配者が変わるたびに異なる言語が要求された。普仏戦争直後にこの地に生まれたシュヴァイツアー博士は、もちろんフランス語もよくできたが、「わたしの母語はドイツ語だ」と言っている。そしてアフリカのランバレネの診療所から帰国(たいていは運転資金用のオルガン演奏会のため)するたびに、この地の使用言語は独仏のいずれかに変わっていた、とも言っている。

第二次世界大戦後、ヒトラーの軍団が引き揚げて行ったあとは、もう長らくこの地はフランス領である。郊外には、フランツ少年やアメル先生の時代と同様に、葡萄畑が広がり、良質なワインが造られ飲まれている。一本百万円と噂されるロマネ・コンティを生み出す葡萄園と醸造所も近い。百万円の一本は、残念ながら聞くだけにとどめ、当方は近所の小ぶりのレストランでごく普通の白ワインを白アスパラと生ハムを肴にいただく。

付け加えておこう。じつはゲーテもシュトラースブルク(ストラスブール)大学で短期間学生生活を送った(市内にはゲーテが住んでいた家屋がいまなお残っている)。その時に出会った十八歳の乙女フリーデリーケ・ブリオンとの恋を歌ったのが絶唱『五月の歌』。彼女の生家であるゼーゼンハイムの牧師館もいまなお変わらずに残っている。

自然はうつくしく/われに燃え/太陽はかがやき/野辺はわらう
小枝に咲きみつる/花々/しげみを洩るる/鳥のこえ
わが胸にわく/よろこび/おお大地よ太陽よ/おお幸福よ愉悦よ
恋よ恋よ/片岡の/朝雲の/あかねさすうるわしさ
よみがえる/野面に/立ちこめし/むらさきの靄のいろ
少女よ少女よ/ひとえにわれは愛す/黒き汝が眸を/汝もまたわれを愛するかな
揚げ雲雀の/歌と空を/朝ごとの花の/微風を
愛するがごとく/われはあたたかき血もて/汝を愛す/われに青春と歓喜と
あたらしき歌と/舞踏をおくるもの/とこしえに汝は幸いなれかし/ひたすらに
われを愛しつつ
(大山定一訳)


四十年ほど前、当時住んでいた南ドイツの小さな大学町から、シュヴァルツヴァルトの森とライン河を越えてストラスブールまで旅をしたことがある。そのときこのゼーゼンハイムの牧師館で当代の牧師からゲーテの恋物語を聞かされた、「ゲーテはここ(中庭を隔てた納屋)からあそこ(建物の裏口)を出入りするフリーデリーケを盗み見ていたんですよ」と。今日とおなじく明るい光に満ち溢れた五月のことだった。
posted by 出町 柳 at 22:58| Comment(0) | 読む・歩く・飲む