2019年11月15日

[vol.59]ハウプトマン

ドイツ語のwebenは「織る」、「編む」、その名詞形Weberは「織る人」、「編む人」、すなわち「機織りをする人」の意だが、辞書には「織り工」、「織り屋」などと載っている。
そういう名の戯曲がある。ドイツの劇作家G・ハウプトマン(1862-1946)が1892年に書き、1893年に初演した。それを来春大阪で上演しようという企画がある、(清流劇場、一心寺シアター倶楽)。頼まれて日本語にした。ただ「織り工」と言う訳語はなんだか語呂が悪いので、題名は『機織る人々』とした。
1800年代半ばにドイツ東部のシュレジエン地方(現ポーランドのシロスク)で起きた住民の一揆を素材にした、いわゆる社会劇である。当時この地方で機織り産業に従事していた貧困階級の住民らが飢餓に耐えかねて起こした反乱事件を描いている。貧困にあえぐ庶民の生活、彼らを律する宗教、収奪する工場の旦那衆、我慢し切れず立ち上がる民衆等々がリアルに描出される。
こんな遣り取りがある。

ハイバー その布に包んだものは何です?
バオメルト老 にっちもさっちもいかんようになってなぁ、飼っとった犬をバラしてもろうたんじゃ。肉付きゃ悪かった。飢え死に寸前じゃったからなぁ。
可愛らしい仔犬じゃったがな。わしゃこの手でやりとうはなかった。とてもそんな気にゃなれんかった。
(第1幕)

彼らの飢餓状態を示す一節だ。

19世紀のヨーロッパは激動の波のなかにあった。いっとき全域を席捲したナポレオンは失脚しフランスは王政復古するが、再び革命が起きてナポレオン3世の帝国となった。長らくドナウ河流域に君臨していたハプスブルク帝国もようやくその勢力を失いつつあった。代わって台頭してきたのがプロイセンである。そうした時代背景のなかで生まれてきた市民意識は時代を反映する社会劇を生み出す。ハウプトマンに先立ち、すでにイプセンが『人形の家』(1879)を発表している。ノラは新しく先駆的な女性像の登場を鮮やかに示した。

ハウプトマンが描くのは、ノラのような独立した個人の象徴的人物像ではなく、社会の下層にうごめく貧民の群像とその蜂起である。19世紀から20世紀にかけての変動する社会のなかで、貧しい庶民の欲求が政治的な力となって顕在化し革命となって結実するのは1917年のロシア革命が最初だが、それまでにも小規模な一揆や反乱は多々あったのだ。
日本が維新以来の富国強兵路線を遂行し、その一つの成果として日露戦争に勝利するのは1905年のことだが、その10年前にハウプトマンは『機織る人々』を書いた。残念ながら日本では(銃後の)庶民生活はじゅうぶんに書かれていない。国民作家漱石も書いてはいないのだ。
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2019年11月01日

[vol.58]夕日

上る朝日や沈む夕日を一つの景色として見ることはあまりないが、沈む夕日をみることだけを目的にした小旅行をしたことがある。

古い話だ。1990年代初頭の夏、ギリシアに滞在していたとき、アテネからバスで南下しアッティカ半島突端のスニオン岬まで行った。そこに建つポセイドン神殿から西の彼方に落ちる夕日を見ようというのである。エーゲ海の夏は日が長い。陽は午後8時過ぎにやっと落ちる。ポセイドン神殿の石柱に、ギリシア独立戦争時イギリスの詩人バイロンが書き付けた落書きがあると聞いていたが、神殿は封鎖されていて中へ入ることができず、確かめようがなかった。神殿の西側から真っ赤に燃えながら沈みゆく太陽を見た。

それと同じ沈みゆく赤い太陽を淡路島の南西部、慶野松原で、つい最近見た。
もう秋である。日の入りは早い。6時前だったろうか。夏には海水浴客でにぎわったはずの砂浜から四国北部と思しきあたりの海づらに落ちてゆく大輪の赤光を見た。

スニオンのときは愚妻と愚息二人と一緒だった。落日には早すぎる午後、岬の下の海でひと泳ぎし、それから岬の上の神殿まで上ったのである。
慶野松原では、愚息らは遠く東都に出ていて帰らず、愚妻と二人で見た。
「スニオン、憶えているかい?」と訊いてみたら「憶えてる」と言った。

あのときは落日を見届けたあと、またアテネまで取って返したが、宿に着いたのはもう10時を回っていたのではなかったろうか。
淡路では慶野松原の松林の中に宿があった。陽が落ちて暮れ始めたころ夕食をとる。豊富な海鮮料理のほかに、珍しやスペイン風「パエリャ」が出て、白と赤のワインとともに食す。

翌日は同行した仲間たちと鳴門まで下り、まず海から渦潮を見、大塚美術館で泰西名画(陶製)を鑑賞する。晴天。人多し。市内の寿司屋で昼食をとったのち散会。

スニオン岬のポセイドン神殿は、海ゆく民を守る神ポセイドンの名にたがわず、月光を浴びて白く光るその石柱が灯台の役を果たしたと伝えられる。
わが淡路島は謎の歌人源兼昌によってこう詠われている。

  淡路島通う千鳥の鳴く声に
   いく夜寝ざめぬ須磨の関守り
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2019年10月15日

[vol.57]針江生水

誘われて針江生水(はりえ・しょうず)の郷へ行ってきた。大人の秋の遠足である。

琵琶湖の西岸をほとんど北端まで北上する。JR湖西線では新旭駅の近くになる。辺り一帯には比良山系に降った雨雪が地中に潜伏したのち清水となってぽこぽこと湧き出している。生水(しょうず)である。どの家も庭先きや台所にこの噴水泉を有し、生活水として使っている。これを「かばた」と称する。
各噴水泉をつなぐ水路が張り巡らされていて、そこには鯉やアユが跳ね回っている。かつては各家の水場に浸けられた釜の飯粒が格好のエサになっていたのだという。魚影を見なが地区を一巡する。途中の禅寺正伝寺には噴泉から生じたけっこう大きな池もある。

付近の小さな酒蔵を訪ね、湖北の銘酒「松の花」を試飲する。やや辛口。杜氏は能登から来るというが、その姿は場内になく、今年の酒造りはまだ始まっていない。家への土産に一瓶購入する。

昼食は近くの牧場内にあるレストランで焼き肉だった。夕食は、それを目当てに来たアユの予定だが、その前に近くにある大農園で栗拾いをする。西日照るなか、草むらに落ちた栗のイガの中から実を取り出すのに苦労しながら奮闘し、なんとか土産に持ち帰るだけの量を確保する。いささかの汗と疲労。

アユは絶品だった。都会の街中で売られ食されているものとちがって、身が引き締まり、生前は精悍なアスリート(!?)であったか、と思わせるような姿態。体長約15cm。それを焼いて、少々の塩だけで食す。まことに美味い。5、6尾くらいはまたたくまに胃の腑に収まる。合わせる酒は、同伴者の意向もあってよく冷やした白ワイン。これが意外といける。お添えに近江肉のローストも付く。これまた美味。

ワインを選択するときに、肉料理には赤と教えられるが、要は自分の舌に合えばよいのであって、俗説(!?)に惑わされることはない。すべて美の基本は己にあるのである。

とっぷり暮れた午後8時、宴を終えて帰路につく。
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