2019年11月01日

[vol.58]夕日

上る朝日や沈む夕日を一つの景色として見ることはあまりないが、沈む夕日をみることだけを目的にした小旅行をしたことがある。

古い話だ。1990年代初頭の夏、ギリシアに滞在していたとき、アテネからバスで南下しアッティカ半島突端のスニオン岬まで行った。そこに建つポセイドン神殿から西の彼方に落ちる夕日を見ようというのである。エーゲ海の夏は日が長い。陽は午後8時過ぎにやっと落ちる。ポセイドン神殿の石柱に、ギリシア独立戦争時イギリスの詩人バイロンが書き付けた落書きがあると聞いていたが、神殿は封鎖されていて中へ入ることができず、確かめようがなかった。神殿の西側から真っ赤に燃えながら沈みゆく太陽を見た。

それと同じ沈みゆく赤い太陽を淡路島の南西部、慶野松原で、つい最近見た。
もう秋である。日の入りは早い。6時前だったろうか。夏には海水浴客でにぎわったはずの砂浜から四国北部と思しきあたりの海づらに落ちてゆく大輪の赤光を見た。

スニオンのときは愚妻と愚息二人と一緒だった。落日には早すぎる午後、岬の下の海でひと泳ぎし、それから岬の上の神殿まで上ったのである。
慶野松原では、愚息らは遠く東都に出ていて帰らず、愚妻と二人で見た。
「スニオン、憶えているかい?」と訊いてみたら「憶えてる」と言った。

あのときは落日を見届けたあと、またアテネまで取って返したが、宿に着いたのはもう10時を回っていたのではなかったろうか。
淡路では慶野松原の松林の中に宿があった。陽が落ちて暮れ始めたころ夕食をとる。豊富な海鮮料理のほかに、珍しやスペイン風「パエリャ」が出て、白と赤のワインとともに食す。

翌日は同行した仲間たちと鳴門まで下り、まず海から渦潮を見、大塚美術館で泰西名画(陶製)を鑑賞する。晴天。人多し。市内の寿司屋で昼食をとったのち散会。

スニオン岬のポセイドン神殿は、海ゆく民を守る神ポセイドンの名にたがわず、月光を浴びて白く光るその石柱が灯台の役を果たしたと伝えられる。
わが淡路島は謎の歌人源兼昌によってこう詠われている。

  淡路島通う千鳥の鳴く声に
   いく夜寝ざめぬ須磨の関守り
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2019年10月15日

[vol.57]針江生水

誘われて針江生水(はりえ・しょうず)の郷へ行ってきた。大人の秋の遠足である。

琵琶湖の西岸をほとんど北端まで北上する。JR湖西線では新旭駅の近くになる。辺り一帯には比良山系に降った雨雪が地中に潜伏したのち清水となってぽこぽこと湧き出している。生水(しょうず)である。どの家も庭先きや台所にこの噴水泉を有し、生活水として使っている。これを「かばた」と称する。
各噴水泉をつなぐ水路が張り巡らされていて、そこには鯉やアユが跳ね回っている。かつては各家の水場に浸けられた釜の飯粒が格好のエサになっていたのだという。魚影を見なが地区を一巡する。途中の禅寺正伝寺には噴泉から生じたけっこう大きな池もある。

付近の小さな酒蔵を訪ね、湖北の銘酒「松の花」を試飲する。やや辛口。杜氏は能登から来るというが、その姿は場内になく、今年の酒造りはまだ始まっていない。家への土産に一瓶購入する。

昼食は近くの牧場内にあるレストランで焼き肉だった。夕食は、それを目当てに来たアユの予定だが、その前に近くにある大農園で栗拾いをする。西日照るなか、草むらに落ちた栗のイガの中から実を取り出すのに苦労しながら奮闘し、なんとか土産に持ち帰るだけの量を確保する。いささかの汗と疲労。

アユは絶品だった。都会の街中で売られ食されているものとちがって、身が引き締まり、生前は精悍なアスリート(!?)であったか、と思わせるような姿態。体長約15cm。それを焼いて、少々の塩だけで食す。まことに美味い。5、6尾くらいはまたたくまに胃の腑に収まる。合わせる酒は、同伴者の意向もあってよく冷やした白ワイン。これが意外といける。お添えに近江肉のローストも付く。これまた美味。

ワインを選択するときに、肉料理には赤と教えられるが、要は自分の舌に合えばよいのであって、俗説(!?)に惑わされることはない。すべて美の基本は己にあるのである。

とっぷり暮れた午後8時、宴を終えて帰路につく。
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2019年10月01日

[vol.56]同期会

同期会開催の通知が届いた。同期会とは同窓会のことだが、われらの小さな会は発足以来その名を使っている。郷里の中学の同窓会関西支部の年1回の会合である。総勢10名ほど。隠れ会員がいるかもしれないが、毎回集まるのは10名内外。かつて大阪に住んでいたが今は郷里に帰っていて、会合の時にだけ出て来るという者もいる。熱心というか変わり者というか。もちろん歓迎される。

郷里の中学校には恒常的な同窓会組織はなく(確信はないが、おそらく)各年度の卒業生が全校的に集まるか、各クラスごとに集まるか、そのいずれかになっている(はずだ)が、われわれの学年の場合はそのいずれの会も最近とんと開かれていない。残念ながらよほど献身的な世話好きがいなければ、たとえ毎年でなくても開催は難しい。郷里を出た者が「開いてくれよ」とねだるのも何となく憚われる。あれやこれやで昨今は帰郷する機会はほとんどない。

関西支部は7、8年前から年1回の会合が定期化してきた。M君のおかげである。
元商社マンで豊中在住のM君が幹事役を引き受けてくれ、阪神間の「旨くて安い店」を見つけてくる。われらはそれに任せて集り、食事と近況報告を楽しむ。それだけである。今年は新大阪駅近くの某ホテルの中華飯店を会場とすることに決まっている。

われわれの中学校は2校の小学校の卒業生が進学することになっていた。そんな場合、双方の小学校を代表するガキ大将が新世界での覇を競うはずのものだが、幸いなことにそのことに特化した「事件」は何も起こらなかった。うまく合流したのである。

巷には「新制」という言葉が飛び交っていた。エリートしか進学できなかった「旧制」と違って、「新制中学校」は誰でも行けたのだ。ただ急ごしらえのこととて校舎をはじめ諸施設が整っていなかった。われらの中学校は郊外の田圃の中にあった大阪酸素という会社の廃工場を転用したもので、先輩の2、3年生だけが新築の2階建て校舎に収容されていた。

いろんな教師がいた。当時流行していた劇画(?)の主人公「黄金バット」に酷似していた教頭イノウエこと「オーゴン」、県洋画壇の中堅「テラオのハンチャン」、昼食にトーストパンにバターを塗って喰っていた国語のササキ(この人は夏になると慶応のスクーリングを受講しに上京していた)、南方の戦地帰りのキリノ(前立命館出身の将校、現NHK放送劇団の声優)等々。

筆者はこのキリノにリクルートされてNHK学校放送に声優として出演し、30分100円(税一割引かれて手取り90円)を稼いでいた。
当時の(児童劇団の)仲間でのちに役者稼業に身を落とした(!?)者はいない。せいぜいが高校演劇部での活動くらいまでである。大人の劇団員のなかにはいた。「岡ちゃん」という上手いおばさまがいて、東京へ出てけっこう活躍していた。あとの面々は地元の「葦川会館」を根城にキリノの脚本・演出で演劇活動に打ち込んでいた。

ほとんどの人が鬼籍に入った。余所事ではない。こちらもそろそろ準備しないといけない。準備というのは、向こうでの話のタネである。タネは多種多彩であるのが望ましい。そのためにもあとしばらくはこちらで奮闘する必要がある。
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