2018年05月01日

[vol.22]春は馬車に乗って

今年の桜は早かった。西日本では3月末から4月初めにかけて各地満開となった。
近所の家の庭にある一本がこの世の春とばかりに咲き誇り、歩道を行き交う人に惜しげもなく豪奢な花のシャンデリアを翳し、風でもあれば頭に肩に花弁を注ぎかける。
子供のころに感じた季節の変わり目のめりはりが、昨今では少し欠けてきたように思われる。国中が貧乏していて何もない時代の冬は寒かった。木枯らしが雨戸をガタガタと揺らし、通学路の水たまりには氷が張った。子供らは校舎の南側の壁に張り付いて日向ぼっこをした。春はなかなか来なかった。
いまから92年前、横光利一は短篇『春は馬車に乗って』を書いた。若い作家(と思しき主人公)が海辺の家で胸を病んだ妻の看病にひと冬を過ごす。その記録である。
庭の芝生が冬の潮風に枯れて来た。硝子戸は終日辻馬車の扉のようにがたがたと慄えていた。
(昭和文学全集5、小学館)

彼は執筆の合い間に妻の看病をし、またその合い間に妻に食べさせるため鳥屋に臓物を買いに出かける。また医者の許へ薬を貰いに行く。
「あなた、泣いていたのね。」と妻は云った。
「いや。」
「そうよ。」
「泣く理由がないじゃないか。」
「もう分っていてよ。お医者さんが何か云ったのね。」
〈略〉
その日から、彼は彼女の云うままに機械のように動き出した。
そうして、彼は、それが彼女に与える最後の餞別だと思っていた。
(同上)

死を間近に控えた妻は我儘を言って彼を困らせる。その間も、しかし病勢は進む。厳しい冬の後には春が来るはずだが、妻の体は次第に衰える。
その頃知人から二人の許へ春を告げるスイトピーの花が届けられる。
「これは実に綺麗じゃないか。」
「どこから来たの。」
「此の花は馬車に乗って、海の岸を真っ先きに春を撒き撒きやって来たのさ。」
妻は彼から花束を受けると両手で胸いっぱいに抱きしめた。そうして、彼女は
その明るい花束の中へ蒼ざめた顔を埋めると、恍惚として眼を閉じた。
(同上)

春の贈り物スイトピーの花束が馬車の荷台に乗せられ、向こうの岬を廻ってやって来る。妻はその「春」を胸に抱く。迫り来る死の闇のなかに一瞬またたく灯火を慈しむように、春と同化するように。

むかしは春はこのようにしてやって来た。いや、横光はこのように春を受け止めて書いた。作中の二人は、一見中年の夫婦のように思われるが、しかし横光がこれを書いたのは28歳のとき(1926年)だった。妻に掛ける夫の言葉が教条的でこなれていないのが難といえば難であるが、妻の姿には死の直前の、死を直視する人間の姿が過不足なく描き出されている。
岬を廻って来たスイトピーとそれに顔を埋める妻、この一篇はそこに尽きる。そしてそこで閉じられる。

春は馬車に乗ってやって来る。なんと美しく、すがすがしく、哀しいことか。
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2018年04月15日

[vol.21]続々・観劇記

劇団清流劇場の平成30年春季公演はスイスの劇作家マックス・フリッシュの『アンドラ』(市川明訳、田中孝弥演出)で、3月7日から11日まで天王寺の一心寺シアター倶楽で上演された。その最終日を観た。

劇の場は架空の小国アンドラ、時代は現代。主人公アンドリは里親の教師カンの許で幼少のころからユダヤ人として育てられるが、実は里親カンの婚外子である。ユダヤ人ではないのにユダヤ人として育ったアンドリは社会からいわれのない差別を受け、最後には殺される。
ごく普通の素朴な市民による差別。アンドリが非ユダヤ人であることを知らぬままに誤った認識によってなされる差別。事の真贋を究めることなく、ただ自己保身に走る冷酷非情な市民社会。古今東西を問わずいつの世にも存在する一般市民による身勝手な選別意識。それが適確に表示され、突きつけられ、観客は判断を迫られる。

元はといえば、一連の騒動はアンドリの実父である教師カンが他国で妻以外の女性に生ませた子を(なぜか)「ユダヤ人の子」と言い繕ってアンドラ社会へ連れ帰ったことに起因している。人種差別(ユダヤ人問題)という大テーマ以前に、じつは婚外子をめぐる個人的かつ家庭的悲劇の素がすでにしてある。

ユダヤ人選別と排除の歴史は古い。ナチスの時代のナチスの暴虐だけに止まるものではない。ユダヤ人選別がこの劇の大きなテーマであることは明白だが、しかし劇はまず教師カンのきわめて個人的な思いなしに始まる。そしてそれは、本来ならば、家庭の悲劇として展開していくはずである。その過程で人種差別という大きなテーマが登場するかもしれないが、つまり個人的な家庭の悲劇が広範な人間悲劇、市民社会全体を取り込む社会悲劇に変貌することは決してないとは言えないが、それにしてもいまの場合この二つの悲劇をくっつける、その手管はいささか安直にしてかつ無様である、と言わざるを得ない。

教師カンが生みだした家庭悲劇は、それだけで独立した作品として成立し得る。そこにユダヤ人差別の問題を繋げることに意味がないとは言わないが、それにはまずカンがなぜアンドリを「ユダヤ人の子」としたのか、そのときのカンの心情がじゅうぶんに掘り下げられて表示されねばならないだろう。
ユダヤ人差別の状況、結果――それは多くの場に置いてすでに存分に表示され一般に周知されている――よりも、それの起因要素こそ明示されねばならない。アンドリに対する市民の差別の淵源は実父カンの誤った処置にある。われわれは市民の非情を責めるまえにカンの軽薄な無思慮を批判しなければならぬだろう。そこにもし何らかの理由があるなら、それが明らかにされねばならない。それを書けば、それだけできわめて上等な悲劇作品が仕上がるはずだ。

客席は満員の盛況。千秋楽、俳優陣はセリフ、仕草とも練れてきて快調、そして熱演。全12景、休憩を挟んで2時間半の長丁場を乗り切った。鼻持ちならぬ悪女の医師を怪演した林英世、やくざな兵士パイダーの田村K−1、白痴の上海太郎らが印象に残る。

付け加えたい。千秋楽の2日後、第20回関西現代演劇俳優賞の授賞式があり、林英世氏がめでたく女優賞を受賞された。2日前の医師役の熱演もむべなるかな。心からなる拍手を送る。
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2018年04月01日

[vol.20]カサブランカ

京都の老舗旅館「柊家」で夕食を取る機会があった。「では二次会に」と連れて行かれたのが、近くの「フォーチュン・ガーデン」というカフェレストラン(いや、ビストロというべきか)だった。聞いたことの無い名前だな、と思いながらついて行くと市役所北の建物である。入口の階段を2、3段上がって中へ入る。まてよ、これは島津製作所の本社屋ではないか。

そのとおり。かつてこの建物は島津の旧本社屋だった。学生の頃、東大路通りを南下したデモ隊は祇園石段下と四条河原町交差点で渦巻きデモを敢行し、それから河原町通りを北上して市役所前広場に至り、そこで府学連委員長の総括演説を聞いたのち解散――というのが定例だった。解散後はデモ仲間と三条河原町の通りに面した2階の「さくら食堂」へ上がってカレーライスを食った。空きっ腹にはいかなる山海の珍味よりも美味と思われた。市役所の北は、南側の三条、四条のような盛り場ではない。腹をすかせたデモ学生を歓迎する食堂などはなかった。島津の旧本社屋も市電の窓から眺めるだけのものだった。

堅牢な白い石造りの4階建ての建物で、歩道から2、3段上がらぬと1階のフロアに到達できない。風格がある。理科の機械、装置の製造と販売を本業とする会社だから、文系学生には当面、いやこの先もずっと縁がない。縁も馴染みも無いだけに、却ってその風采は威風堂々として見えた、その頃は。いや、いまでも。

むかし「カサブランカ」という映画があった。ハンフリ・ボガートとイングリッド・バーグマン共演のメロドラマ、ただし訳あり同士の男と女のメロドラマである。男はスペイン内戦で人民戦線政府側に肩入れした前歴があり、女はナチスに追われて逃げ回る平和運動家の妻という設定。二人はパリで出会い恋に落ちるが、パリ陥落時に離れ離れとなり、北アフリカ、モロッコの町カサブランカで再会する。それも男リックが経営するカフェレストラン「カフェ・アメリカン」で。

女は夫、ナチスに追われる平和運動家ラズロと一緒に来店する、パリ時代の恋人の店とも知らずに。白いスーツと白い婦人服をりゅうと着こなした二人に逃亡生活のやつれはない。注文はコアントロー。ピアノ弾きの黒人サムが請われるままに思い出の曲「時の過ぎゆくままに」を弾く。聞きとがめるリック。サムは目顔でかつての恋人の来訪を告げる……。

映画の制作年は1942年。第二次世界大戦当時ヨーロッパからアメリカへ渡るにはカサブランカからリスボン経由でというのが有力なルートだった、という設定。いきおいカサブランカはヨーロッパ各地からの「逃亡者」で満ち溢れる。リック自身が祖国アメリカを追われたさすらいのお尋ね者、「逃亡者」であり、平和運動家ラズロ夫妻もナチスに追われてヨーロッパを脱出する「逃亡者」だった。

同じ「逃亡者」ながら、リックがラズロ夫妻に通行証を譲ってリスボン行の飛行機に乗せるという結末の一場面はメロドラマの極ともいえ、それが見る者を辟易させるのだが、訳知り顔に涙腺を慌てて締めるのは芸術家(?!)の仕掛けに素直に反応できない芸術不感症患者の愚行ともいうべきで、一か所でも耽溺できる箇所があれば喜んで耽溺するのが、おそらく無上の芸術鑑賞(作法)なのである。それはともかく、後に残ったリックにはなお安住の地はなさそうで、まだしばらくは逃亡生活を続けなければならない。

そもそも1942年という年にこれほどの自国讃歌を歌い上げるアメリカ人の自信と気楽さは、なんだか恐ろしい気もする。

誤解を承知で言うのだが、「フォーチュン・ガーデン」、いや、旧島津製作所本社屋はリックの店「カフェ・アメリカン」に似ている。1階の広い屋内、高い天井、そこで緩やかに回転している空気攪拌機の羽根、お暗い店内の各テーブル上でオレンジ色の灯りを落としているスタンド、向こうの隅に見えるカウンター席。サムのピアノ演奏はないが、何かしら曲が低く鳴っている。警察署長もドイツ軍将校も来ていない。ルーレットが廻る奥の部屋もなさそうだ。しかし――

コアントローの代りに白ワインを注文し、暫し未踏の地カサブランカを夢想する。それだけである。
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