2018年12月01日

[vol.36]『メデイア』上演始末

劇団清流劇場の今年の秋の公演はギリシア悲劇のエウリピデス作『メデイア』だった(10/17〜21、天王寺、一心寺シアター倶楽)。ギリシア悲劇の上演は昨春の『オイディプス王』以来になる。

広く人間界に生起し人間を悲劇に陥れるもの、それは古代でも現代でも変わらない。ギリシア悲劇はそうしたものを普遍の道理として早くに提示した。とはいえ2500年前野外劇場で春の陽光の下で演じられたものを現代の暗い屋内空間の人工の光の中で演じるには、それなりの工夫が必要になる。

演出の田中孝弥は舞台を屋内のメデイアの住居とした。ベッド、安楽椅子、流し、冷蔵庫、食卓が舞台上に並ぶ。メデイアもイアソンも飲食をする。子供らはテレビゲームに興じる。メデイアはヨガにもいそしむ。そういう世俗的な生活空間が観客の面前に現前する。コリントス王クレオンはここに身を運び、追放令を下す。アテナイ王アイゲウスはデルポイ詣での帰途、ここに立ち寄りメデイアの逃亡受け入れを承諾する。

合唱隊は――これはギリシア悲劇の上演に当たって、その舞台上での扱いをどうするか、苦労し困惑する最大の要因であるが――総勢4人、舞台上を、すなわちメデイアの部屋を自在に歩き回りながら、第三者としての分際は弁えつつ、その役割を全うした。普通なら担当する情景描写の歌舞は、上演時間との関係で最小限に切り詰められ、専らメデイアへの助言役に徹した。

メデイアの乳母は男性の召使へと配役変更されたが、これを演じた阿部達雄の好演もあって、違和感なく受け入れられた。合唱隊の長を演じた日永貴子も好演。この二人の安定した演技が激情に走るメデイアのよき監視役となり、劇にめりはりをつけた。

エウリピデスは良い意味での世俗性を持つ作家だが、上に述べたような現代風の舞台設定は、その間の事情を汲み取った上でそれを現代に生かすことを意図したものだろう。ただそれでもなお残るメデイア伝承の持つおどろおどろしい魔性の世界とのギャップを、観客はどう受け止めただろうか。

エウリピデスはメデイアの子供殺しをテュ―モス(激情)という心的要因で説明しようとした。未開の地コルキスの魔女一族を出自とするがゆえの凶行ではなく、人間誰しもが有する強い感性が理性を凌駕する一瞬にこそ悲劇誕生の機があるとしたのである。ここに彼の新しさがある。

そう、悲劇出来の事情はわかった。いまでもわたしたちはテューモスに襲われれば子供殺しに走る。だがその後始末はどうするのか。エウリピデスはメデイアを竜車に乗せてアテナイへ逃がした。子供を殺した母親を伝承世界へ逃がし、一件落着とした。天空を行く竜車の中で彼女は何を考えたろうか。わたしたちが考慮すべきは殺害以前の心の動きテューモスではない。殺害後の彼女の心情である。そのようにして初めてわたしたちは『メデイア』上演、そして観劇の現代的意義を持つことができる――そう思われる。

2時間に余る上演の中間に20分間の休憩があった。場外のロビーで茶菓の提供があったが、その中にメデイアの故郷コルキスのワイン=グルジア・ワインがあった。それを選んだ観客は血のように赤いそれを、メデイアの激情とその果ての悲劇の血潮とを、深く胸に呑み込んだのである。

ある劇評に「日常に潜む怒りの炎。智を超える人間の本性を突いた」(九鬼葉子)とある。あの舞台設定は成功と捉えられたようだ。
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2018年11月15日

[vol.35]裏寺町界隈

京都四条河原町交差点の西南の角に高島屋デパートがある。その北向かいの「ゑり善」の東横の路地を北へ入って行くと裏寺町。その界隈に「静」という居酒屋があった(いまでもあるらしい)。安酒を安く飲ます店で、貧乏学生の拠り所となっていた。「今日は四条で飲むぞ」と勇んで四条へ出ても、ここで始まり、たいていここで終わった。

ギリシア語の初等文法を上げたとき、担当教師M(哲学の助手。この人は山本修二が主宰するアイルランド劇研究会の有力会員だった)と履修生7、8人とが繰り込んで遅くまで飲んだ。演習授業でプラトンを読んだときは、担当の非常勤講師のこれまたMが、たった2人残った我ら履修生を連れて行ってくれた。京都で学生時代を過ごした先輩たちには若い頃からすでに馴染みの店だったらしく、卒業後も折に触れて利用するのは後輩たちへの引き継ぎを兼ねた、いわば伝統的行事であったらしい。戦後の闇市を潜り抜けてきた彼らは、闇焼酎を梅酒で割った「梅割り」やドブロクから飲むことを始めたという。そういう先輩と接していると、話しの端々に学科が少々不出来でも「あいつは酒が飲めるから」と点を甘くしてくれるところがあった。

品行方正にして学識豊かな方々が一方にいたことはもちろんである。そうした諸先生は何か一つ読み終わっても打ち上げと称する酒盛りをすることはなかった。いや、そうした碩学でも祇園から人力車で大学へ講義に通ったという九鬼周造がいたし、戦後でも毎夜祇園で飲んでいた大山定一なんて人もいた――そういう噂がある。学生と一緒に飲む飲まないは別にして、酒好きの教授はいたわけである。

森泰三という小説家をご存じだろうか。ある期の芥川賞の最終審査にまで残った人だが、残念ながら受賞を逸した。その期は受賞者はなく、森泰三はもう一人の清水某と同点二位だった。この森泰三が上に上げた二人目のMその人である。一方でプラトンを読み、一方で創作の筆を執っていた。この人には筆者は折に触れてお世話になった。信州戸隠のその山荘に押しかけて一夜飲み明かしたこともある。もう少し売れてからあちらに行ってもよかったのに、と今にして思う。

「静」のある裏寺町には、戦前「正宗ホール」という居酒屋があった。三高生だった織田作之助が書いている。
崩れ掛ったお寺の壁に凭れてほの暗い電灯の光に浮かぬ顔を照らして客待ちしている車夫がいたり、酔っぱらいが反吐を吐きながら電柱により掛っていたりする京極裏の小路を突き当って、「正宗ホール」へはいった。
そこも三高生の寮歌がガンガンと鳴り響いていた。
(織田作之助『青春の逆説』)

やがて鼻の大きな男が
「どうだ、この学生と一緒にガルテンへ行こうか」と顎の尖った男に言った。
「良かろう。面白い。可愛いからね」
そして豹一らの分まで無理に勘定を済ませると、
「どうです? 一緒に行きませんか」割に丁寧な物の言い方で言った。
「どこでも行きますよ。畜生!」赤井はやけになってそう叫び、黙ってむつかしい顔をしている豹一の傍へ寄ると、
「行こう。面白いじゃないか。ガルテンと言うのは祇園のことだ。園は独逸語でガルテンだろう?」耳の傍で囁いた。
(同上)

昭和の初め、世相はだんだんと険しくなっていくが、一方にまだこんな世界があった。いまではまずこんなことはないだろう。豹一や赤井はいるが、鼻の大きな男や顎の尖った男はいかに京都でももういないだろうから。
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2018年11月01日

[vol.34]ジャズと串カツ

過日「木曜会」があった。予定では『夢十夜』を取り上げることになっていたが、どうにも話が弾まず、前回の『明暗』をまた取り上げて俎上にのせることになった。

Mさんが紹介した正宗白鳥の『夏目漱石論』に言う、「少し箍が緩んでいるような感じがする作品である。運びがまどろしく退屈だ」との評言はまさに正鵠を射た卓見である、と思われる。

ただ次はどうだろう、「これまでの彼れの小説には、多くの女性は断片的に現されているか、あるいは型に入ったように現実味を欠いでいたが、お延とお秀と、吉川夫人とは、充分に現実の女らしい羽を拡げて羽叩きしている」。果たしてそうか?

お延もお秀も饒舌ではある。二人は夫と妻の関係性について論じているが、しかしそれは近代社会における女性の地位、あるいは職業の問題にまで達することはない。女性自立の問題は市民小説として成立する上で重要な要素となるものだが、それがまだじゅうぶんに展開されているとは言い難い。

K先輩も白鳥の『漱石論』のこの箇所にかくべつ異は唱えない。筆者は朝鮮帰りの小林がその存在を重くするはずの続篇に市民小説としての完成を期待したいのだが、漱石死してそれは永久に夢と化してしまった。たとえ書かれたとしても、弛み切った箍を締め直すのは難行だろう。真の意味での近代市民小説は、少なくとも漱石によっては書かれなかったことになる。

会のあと、いつもはMさんと梅田でジョッキ片手にさっきまでの議論の復習をするのだが、彼に所用があるとかで、早々に別れる。阪神で青木まで帰り、駅南の居酒屋「周山」に寄る。外出している愚妻と落ち合うことになっている。
とりあえずビール、そのあとは焼酎「もぐら」の水割り。京風のおばんざいよろしく目の前の大皿に盛られた肴の中から「鰻巻き」などを選ぶ。時節がら「松茸の土瓶蒸し」もいただく。松茸は、もちろん国産ではないから、香りが薄い。昨今は松茸に限らず、国産でも、茗荷も、いやキュウリ、トマトでも匂や味に独特のくせ、エグ味がなくなった。筍でもそうだ。せっかくの野の味と香りが弱まり失われているように感じられる。これは洗練ではない、弱化だろう。
追加して魚貝類の串揚げも注文する。

高い天井を打ち放しのコンクリの壁で支えている店内にはジャズが鳴っている。
串を揚げ終えた店主に訊くと、「好きなんです」という、一番は「ビル・エヴァンス」だと。「おたくは?」と訊かれ、最近たまたま聞いていたチェット・ベイカーだと、「ペットと歌のBut not for me がいいですね」と返す。

2時間ほど、愚妻ともどもたっぷり飲み食いしたのち、腰を上げる。
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