2019年06月15日

[vol.49]生と死

むかしヘラクレスという男がいた。むかしといっても古代ギリシア人が神話伝承の中で親しんでいた人物である。とにかくたいへんな英雄豪傑で、世界中(当時の)いや冥界までも訪ね歩いて悪漢や怪獣怪物退治にいそしみ、世の中の混乱の鎮圧と平定、平和と秩序の構築に貢献すること大であった。その風体、顔は髭面、手には棍棒、身には獅子の毛皮を纏う。その性温順、但し好色、かつ鯨飲馬食の巨漢。この後裔にエルキュール(ポワロ)というのがいて、こちらは小男(チビ)、鬚は鼻下に八の字(但し先は両方ともピンと跳ねあがる)、卵形の頭部。元祖の腕力に代わる灰色の小さな脳細胞。これでもって怪物ならぬ数々の難事件を退治する。この彼が活躍するのは概ねイギリスの地方の田園地帯に残る城館で、そこに起きた遺産をめぐる一族の葛藤と殺人事件。背景にはインドやアフリカからの帰還者とか、執事、召使、料理人、庭師などの植民地支配の時代色、またひと時代前の階級社会の残滓が窺われて興味深い。これが愚生の恰好の睡眠剤となってくれている。
元祖のヘラクレスは死者を蘇らせる力をも有する。エウリピデスが残したギリシア劇『アルケスティス』(前438年上演)では、アドメトスの身代わりとなって死んだアルケスティスを死神と格闘して生き返らせるという離れ業を演じる。「死と生」をテーマとはするものの、これはいわゆる通常の悲劇ではない。作家一人に許された上演4作品の最後の4作目サテュロス劇(山野の精サテュロスが卑猥な仕草で笑いを取る口直しの小篇)の代用作品とされているものである。たしかにサテュロスが登場しないからサテュロス劇ではなく、その代用品であるが、さりとて単なる笑劇でもない。もっと何かありそうだ。
ヘラクレスが奮闘してアルケスティスは死の淵から奪還される。その妻をアドメトスは大喜びで迎える。ペライの町に安寧が戻る。大団円。そこで劇の幕は下りる。作者エウリピデスは意地が悪い。ここで筆を擱き、「その後の二人」を描いていないからだ。彼らは今後どう向き合って生きるのか。アルケスティスは再生して得た二度目の生をどう生きるのか。アドメトスは死せる妻アルケスティスを哀惜すること尋常ではなかった。その妻を再び得た彼の喜びは大きい。それはわかる。だがその妻を、自分の身代わりとなって死にかつ再生した妻を前にして、このあと彼はどう生きて行こうとするのか。それが問題だ。それは喜びばかりではないはずだ。そうではないか。
『アルケスティス異聞』(劇団清流劇場7月公演)では、蘇生後三日目の朝アルケスティスはひとり家を出る。ノラのようだが、ノラではない。ドアを後ろ手に閉めながら「やめようかしら」とも言わない。ただ出て行く。
自らに下された死の運命と妻の身代わりの死と再生に翻弄されたアドメトスは、いま訪れた妻との生別を前にして自らの生と死との「向き合い方」を初めて考え始める。
考え始めざるを得ない。
エウリピデスの『アルケスティス』のヒュポテシス(古伝梗概)は、劇の「悲劇的な調子が最後は喜びと楽しさに変わる」とし、だからこの劇はサテュロス劇風だというが、はたしてそうか。喜びと楽しさを素直に味わい得ない観客はアルケスティスに、アドメトスに、そして自分たちに与えられた三日間を、あれこれ考える。『アルケスティス異聞』はそのひとつの解答例である。
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2019年06月01日

[vol.48]10連休

2019年5月1日をもって本邦の元号は平成から令和へ改められた。天皇の生前退位による。これは江戸時代の光格天皇以来のことで、約200年ぶりだということである。祝賀行事の一環だろうか、4月29日から5月6日までの
10日間が連休になった。
前例のない長期連休を、さあどう使うか、いやどう過ごすか。マスコミはさまざまに挑発し煽動する。世の善良なる市民は、それに乗せられて国内外の観光地行楽地へいそいそと出掛ける。

見知らぬ土地へ旅をして知見を広めるのはよいことだ。あわせて日頃の生活で蓄積された疲労が解消できれば、いうことはない。ただどこへ行っても同じ目的を持った人たちと出会い、またそこで一緒くたに揉まれるから、はたして疲労回復になるのかどうか。いっそ人が出払った町なかに居残る方が得策かもしれない。近所の並木の新緑も、遠い行楽地の新緑も、新緑に変わりはないのだから。
さて、では、わが連休の消化過程をご報告する。と申して――何ほどのものでもない。まず、しばらくうっちゃっていた「フェルメール展」(大阪市立美術館)へ、閉展の期日が迫って来たので慌てて足を運んだこと。ただしフェルメール展とはいうものの、彼の作品は6点のみ。しかも人気の高い『真珠の耳飾りの少女』は欠、あとは同時代(17世紀)のオランダ絵画、併せて45作品の展示だった。それでも超満員で、絵よりも人の後頭部ばかりを見る次第と相成った。これが5月3日。
翌4日には東都から帰って来た愚息ら、それに愚妻と義母といっしょに有馬へ一泊で行く。愚息らが幼児のころから馴染みのグランドホテルに投宿し、温泉と食事を楽しむ。大浴場の大窓から新緑の山並みを眺望する。絶景かな!
6日、帰京する愚息らを見送ったのち、午後2時、芦屋ルナホールへ出掛け、ジャズのビッグバンド「モダンタイムス」第9回レギュラーコンサートを聴く。
ゲストヴォ―カルは朱夏洋子。曲目は30年代、40年代のスタンダードナンバーが中心。そのせいか一杯の客席には中老年のファンが目立つ。同世代の愚生も『カモンナマイハウス』や『身も心も』などを楽しんで聴く。帰途、阪神芦屋駅近くの洋風居酒屋「おさむ」に寄り、同行の愚妻と白ワインのボトル1本を空ける。
7日、故金谷信之氏を偲ぶ会に出席。高校の大先輩、といっても氏は旧制一中卒だから年代が違う。関西地区の同窓会でご一緒させていただき、以後酒席もしばしばご一緒させていただいた。一中を首席で卒業後、六高、東大、丸善石油と、まさに理系秀才の経歴であるが、晩年の生活録(癌闘病記を兼ねた)『のぶゆき残日録』(渓水社)ではその筆の赴くところ、理系の枠を超えて、歴史、文学、教育、人生一般から市井の雑事まできわめて広範囲な事象を165段にわたって観察し考証し報告している。その生涯と人柄が如実に窺われて興味深い。出席者8名と小人数の会だったが、いずれも生前の氏に親炙した人ばかりで、まずは献杯、あとは談論風発のうちに在りし日の氏を偲ぶ。
9日、劇団清流劇場の次回公演『アルケスティス異聞』の稽古(といってもまだシナリオの読み合わせ段階)に顔を出す。愚生は、これにはシナリオ担当として責任を分担することになるから、ひときわ力が入る。稽古後、持参したシチリアワインで乾杯し、新たなる出発を誓う。
かくして連休は瞬く間に過ぎた。以上。
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2019年05月15日

[vol.47]桜を観に行く

今年の桜は、開花の時期は昨年とほぼおなじころだったが、花は咲けど気温は上がらず、観桜と洒落こんでも寒くて震えたという人が多かった。
趣味の謡曲の仲間の一人は、三月末に新神戸駅近くの小公園で夜桜の観桜会に参加したものの、「いや、寒くて参りました」とのこと。それでも微醺を帯びれば『忠度』か『吉野天人』でしょう、と水を向けてみるが、「それどころじゃありませんでした」という。

四月に入ってもけっこう肌寒い日が続く。しかし桜は咲いている。そこで好天の日を選んで家人に車を出してもらった。
まずは王子公園へ行き、東端の青谷川沿いに咲いているのを愛でながら坂を北上し、また東行して摩耶ケーブル駅前に出る。そこから桜並木を降る。100メートルほど南下する坂道の両脇にずーっと満開の桜の木が並んでいる。その花のカーテンのわずかな隙間に藍色に光る瀬戸内海が見える。なんとも美しい。今年もこの桜並木を潜りぬけることができた。満足である。

坂を降り切って東行する。護国神社あたりのバス道の両脇にも幾本かの桜があり、花道をつくっている。見上げると六甲の山肌は点在する桜花に芽吹き始めた木々の緑が立ち混じり、柔らかな、そしてけだるい目覚めのごとき表情を見せている。

阪急芦屋川駅まで走り、そこから川沿いに阪神芦屋駅まで南下する。両岸の桜は国道2号線あたりまで続く。ここも満開である。一時川岸でバーベキュウする人たちがいて顰蹙を買っていたが、禁止令が出たのか、昨今は見かけない。爛漫たる桜花、潜りぬけながら流れる河水、遊歩しつつそれを愛でる人影――けだし文化都市芦屋にふさわしい光景だろう。どうぞこのままバーベキュウの油と匂いに汚されないでほしいものだ。

帰宅して車を降りた後、今度は歩いて近所の一本桜を観に行く。今年も存分に花を付けた枝が垣根を越えて歩道に張り出し、道行く人に花を投げかける。しばし佇み、願わくは豪奢なる花吹雪わが身の上に降りかかれよ、と念じてみる。

夕刻、新筍の煮物を肴に燗酒の徳利を傾ける。

 狂い女の襟にひとひら櫻川   朱呑子
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