2018年10月15日

[vol.33]酒は伏見の

内田百閧ュらいになると借金の話も名随筆の素になり盛名の礎となる。富家に生まれながら今は零落の身、というその変転がまた一種の薬味ともなっている。
貧乏人の小倅が貧窮の身を嘆いても、表向きは同情されこそ面白みはない。せいぜい唾棄されて終りである。とはじゅうぶん承知の上ながら、「貧」についてちょっと書いてみる。

学生時代、同級生は地方の公務員、教員、中小企業の勤め人、百姓の子供というのが多かった。皆、おおむね貧乏で僅かの仕送りと奨学金で遣り繰りし、足らぬところはアルバイトで凌いでいた。まずは家庭教師、少しまとまった金が欲しい場合は肉体労働。後者の場合は大学の学生課ではあまり扱われない。

百万遍にその種の斡旋所があった。友人の一人はそこの紹介で太秦の大映の撮影所へ出向いて稼いでいた。藤村志保、市川雷蔵(眠狂四郎)、上田吉二郎(黒沢の『羅生門』以後は各種映画の悪役で一世を風靡した)らとの交流(!?)を、あとになってだが、面白おかしく語ってくれた。

錬金術、その1。学生票を1,000円に代えること。
大学の学生課で学生票と引き換えに仮学生票を発行してもらい、それを第一勧銀百万遍支店の窓口に持参すると1,000円貸し出してくれるという粋な制度があった。
あるときそうして得た1,000円で叡電の定期券を買おうとしたら、窓口で本物の学生票でないと発券できないと断られ、その後しばらく叡電を呪詛し続けたことがある。

錬金術、その2。本屋に質入れ。
デニストンといえばわかる人にはわかるが、古代ギリシア語を読むのに使う辞書のような参考書がある(デニストンはその著者の名前である)。それを今出川通りの理学部近くにあったM書店に持ち込むと、定価3,000円の本で1,000円貸してもらえた。質草をデニストンにしたのは、たまたま所蔵していた書物のなかで一番美装で高価であったからに過ぎない。お蔭でギリシア語を読むのに苦労した。
その1,000円を握って、百万遍の居酒屋で一合60円の酒を飲んだ。デニストンは机上で使うより質蔵にあるほうが長かった本だが、いまでもわが茅屋の書架のどこかに隠れているはずだ。

宿直というバイトもあった。後輩の一人が川端通りの府の土木事務所に泊まり込んでいた。全学連とか中核とか民青とかという言葉が飛び交っていた頃で、大学が封鎖され、長いこと全学休講になった。その間、学生たちはデモの合い間に読書会、研究会などを立ち上げたりしていた。「せっかくだからギリシア悲劇でも読もう」と、週に一度後輩の居るその土木事務所へテクストをもって通った。夕方から2時間ほど読み合わせをしたのち、近所の酒屋で買い込んだ酒をスルメを齧りながら二人で飲んだ。酒は伏見の「明ごころ」。二級酒で一升800円だった。酔余、出町柳駅まで歩き、最終電車で比叡山麓の上高野まで帰った。

モノはソポクレスの『アンティゴネ』だったが、どうしてだか最後まで読み切らぬうちに授業再開となった。
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2018年10月01日

[vol.32]能登の姫君

夏の終わりに思わぬ来客があった。北陸金沢から白きこと雪のごとき肌もつ妙齢の淑女N嬢が見えたのだ。「ご無沙汰でした」と挨拶され、しばし歓談に及んだ。手土産に頂戴したのは銘酒「菊姫」と能登輪島産のワインのジャム(ワインを素材にジャムに仕上げた逸品。ワイン同様に赤と白がある。製造元はハイディホフ)。

輪島にワイナリーがあろうとは、そしてそれからジャムまで作るとは、初耳である。輪島といえば朝市しか思い浮かばない。かつて訪れたことがある。金沢からディーゼル車とバスを乗り継いで能登半島突端の狼煙まで行った。海岸の宿(その名も狼煙館)でしばらく夏の仕事をしようと思ったのだ。

しかし泳いだり、千枚田を見たり、時国家を見学したりして、案の定、仕事のほうはそっちのけになった。若い身空で避暑と仕事を兼ねようなどと不相応なことはせぬ方が良かったのだ。ほとんど何もせずに帰って来た。若気の至りである。

そのときに見た時国家というのは800年の伝統を持つ土地の旧家で、元は源平合戦後に京都から流されてきた平家一門の有力者平時忠(清盛の義弟)を始祖とする名家である。時国というのは時忠の息子だが、能登で家を興すに当たり、時の権力者源家の威光をはばかって平という姓を捨て名前の時国を一家の姓にしたという。時国家に二家あり、本家は上時国家、分家は下時国家と称する。
家祖時忠流刑の次第は『平家物語』に見えている。

………さしもむつましかりし妻子にも別はて、すみなれし都をも雲ゐのよそにかへりみて、いにしへは名にのみ聞し越路の旅におもむき、はるばると下り給ふに、かれは志賀・唐崎、これは真野の入江、交田の浦と申ければ、大納言なくなく詠じた給ひけり。
かへりこむことはかた田にひくあみのめにもたまらぬわがなみだかな
昨日は西海の波の上にただよひて、怨憎会苦の恨を扁舟の内につつみ、けふは北国の雪のしたに埋れて、愛別離苦のかなしみを故郷の雲にかさねたり。
(『平家物語』巻第12 平大納言被流)


時忠は壇ノ浦で死に損ない、捕虜となって帰京し、義経とうまく渡りをつけて命だけは拾ったものの、けっきょく最後は能登へ流刑の身となった。

平家一門の姫君とも見まがう美形N嬢は酒も大いに嗜む。瀬戸内の新鮮な魚貝類を賞味してもらうべく、行きつけの鮨処「真砂」へお連れする。家人と二人の女性軍、寿司をつまみつつ冷酒を粛然と飲み次ぎ、こちらは孤軍奮闘空しく酩酊し敗退する。N嬢、心もち頬を紅く染めはすれ、楚々たる風情はそのままににっこり笑って帰って行かれた。

それにしてもワインのジャムというのは、風味があってなかなかよろしい。
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2018年09月15日

[vol.31]セミ

夏休み中の子供にとってセミは何よりの友達だった。トンボもそうだった。涼しいうちにと、午前中は宿題に手を取られたが、その最中から近所の樹上で鳴くセミの声が耳に届いていた。早く来い、早く来いと子供の心を急かすのだった。

まずアブラゼミ,ニイニイゼミ、樹上高くにいて捕りにくいので余計に捕りたいクマゼミ――その鳴き声から「シャーシャー」と呼ばれでいた、われらの仲間内では。
トンボはギンヤンマ、オニヤンマ、シオカラ、糸トンボ、赤トンボなど多士済済。
戦後すぐの夏はこうした昆虫たちオールスターの競演だった。

いまセミはクマゼミだけになった。わが住まいの周りではアブラゼミもニイニイゼミもいない。気温が上昇して南国化したせいだといわれている。ミンミンは東国か、西国でも北部の山間にしかいない。あれはあくまで東京標準のセミの代表選手である。適当な水辺もないから、トンボも見かけない。

以前ひと夏過ごしたことがあるドイツには、セミはいなかった。見かけなかったし、鳴き声も聞かなかった。アルプス以北のヨーロッパには、どうもセミはいそうにない。しかし地中海沿岸になると、けっこういる。ギリシアのアテネ南方サロニカ湾に浮かぶアイギナ島のアファイア神殿境内の木立で、筆者自身鳴き声を聞いたし捕まえもした。ニイニイゼミのような小型のセミだった。

セミは昔にもいた。前700年前後の頃の詩人ヘシオドスが証人である。田園の夏の昼下がりの情景が以下のように詠われている。
薊(あざみ)の花が咲き、騒がしい蝉が樹にとまって休みなく、
その羽根の下から朗々たる歌を、四方に撒き散らす
凌(しの)ぎがたい夏の日々、その季節となれば、
山羊はもっとも肥え、酒の味も一番良い、
女はもっとも色情をつのらせ、男はもっとも精気を失う、
セイリオス星が頭と膝を焦がし、
肌は熱気に干されて乾き切るからじゃ。
ヘシオドス『仕事と日』582〜588(松平千秋訳)

セミは街中にもいる。時代が下がって前370年代、あのプラトンがセミに言及している。夏の一日、アテナイ市内を流れるイリソス川のほとりのプラタナスの木陰でソクラテスとパイドロスが美について議論している、そのひとこまである。
ソクラテス:[……]むかし、あの蝉たちは人間だった。ムゥサの女神たち(9人の詩女神)がまだ生まれない前の時代に生きていた人間どもの仲間だったのだ。[……]すなわち、彼ら蝉たちの種族は、この世に生をうけると、何ひとつ身を養う糧を必要とせずに、生まれたすぐその時から死んで行くその日まで、食わず、飲まず、ただひたすらうたいつづけ、そして、死んでからのちは、ムゥサたちのもとへ行って、この世に住む人間どもの中の誰が、どのムゥサの女神を敬まっているかを、報告するということになったのである。……
プラトン『パイドロス』259BC(藤澤令夫訳)

今日も朝からセミの賑やかな声がする。捕虫網を手にした幼年少年たちが並木道をあちこちしている。

ヘシオドスはセミの声にリギュロスという形容詞を付けた。ギ英辞書ではsharp,clear,piercingの訳語があてられている。先の引用のなかの「朗々たる」という訳語は適確である。sweetという訳語もあるが、これはどうだろう。古代ギリシア人はさておき、わたしたちにはあのセミの鳴き声を「甘い歌声」とは、どうも聞けないのではないか。

夕刻庭に打ち水をし、棚にぶら下がる葡萄の房の一粒を戯れに口に入れてみる。
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