2019年02月15日

[vol.41]酒飲みの自己弁護

晩酌は「とりあえずビール」で始めるが、そのあとはその時家にあるもの、日本酒とか焼酎とかワインとかを飲み、ビールをそのまま続けることもある。べつにその日の食事の種類(和・洋・中)に合わせるわけではない。ステーキだから赤ワインを抜くべし、という巷間の食事作法とはまず関係ない。飲めるだけで嬉しかった時代を経た身には、酒が主で食事が従。赤ワインにステーキとなれば上出来、赤ワインと焼き魚、いや赤ワインと筑前煮という組み合わせでも一向に構わない。

幾世代にもわたって受け継がれてきた食事作法=飲食の取り合わせを破るのは各人の自由だし、またそこに至るやむを得ぬ理由・要因があるにはあるのだが、しかしあまり他人と違う振る舞いをしていると、ひょっとして「己は味盲」ではあるまいか、との疑念が湧いてくる。

日本酒に「甘口」、「辛口」がある。夕餉に家人と飲んでいて、「これ、甘すぎる。もっと辛いほうがよろしいわ」と言われて、こちらは、はて、そうかなと思いまどう。味覚に絶対尺度はなく、各人それぞれの美的感度によるものだと思えばよいのだが、10人のうち8人が甘口だと言えば、「いや、辛口です」とは、ちょっと言いづらい。そのくせ世の皆に伍して名のある銘酒を求めたがる。見栄っ張りの未盲者のおぞましき姿でもあろうか。

過日JR摂津本山駅南口の南、2号線を渡ってすぐのところの酒小売店「大宗」を訪ねた。世話になった人へのお礼として伏見の酒「古都千年」を求めて行ったのだが、無い。むりもない、灘酒の聖地魚崎郷で伏見の酒を求めるほうがどうかしている。思い直して店主が勧める栃木の酒「惣誉」と地元の千代田蔵の「道灌」を贖う。「道灌」は江戸城を築城した太田道灌ゆかりの者の創業とやらで近江八幡の太田酒造が本家本元らしいが、摂津の国魚崎郷に酒造場千代田蔵を設け、そこで醸造してできたのが遠祖の名を継ぐこの銘酒「道灌」。燗でも冷やでもよし、年を越してもちびちびと愛飲している。

「惣誉」のほうは暮れの餅つき会(劇団清流劇場主催)へ持参し、餅をつきあげたあとの夕刻に始まった鍋の場で皆で飲んだ。ちょっと甘口(わが味覚では!?)だけど、喉越しよく、あっというまに飲み干された。

酒を飲むとき、唯一心していることがある。家の内外を問わず夕刻に飲むことが予定されている場合、昼間の酒は絶対に自制すること――いくら勧められても――ということだ。これは郷里の大先輩内田百關謳カを見習ってのことである。じっさい昼に飲むと宵の酒はほんとうに美味くない。

もっとも西欧ではたいてい皆昼間から酒を飲んでいる。昼食には必ず酒が付くのである。そして夜にも飲む。食習慣の違いなのだろうが、われわれには一日の仕事を終えた夕刻に一杯というのが、どうやらいちばん似合っている。酒を飲むことに意味をもたせようとすれば、自然とそうなる。われわれは酒精分だけでなく、一日刻みの人生をも飲んでいるのである。
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2019年02月01日

[vol.40]初詣

大晦日、テレビの画面では紅白歌合戦が終わり、各地の寺院の除夜の鐘が中継され始めるころ、年越し蕎麦を食べ、家から5分の横屋八幡神社へ初詣に出かける。

先日来の寒波も和らぎ、日和もよろしく、参詣してみれば、参道にはすでに3、40名の参拝客が列をなしている。以前は列をなすほどの人影はなく、並ばずとも参詣してお神酒をいただき、境内で焚く焚火に凍える手を翳したものだが、この変わりようはどうだろう。町内の住民に近年特別に信仰心が芽生えたわけでもなかろうに。

横屋(村)という地名は16世紀末の古文書にも出て来るというが、先の大地震後の復旧工事中に古代の甕棺が出土したというから、この辺り一帯は古代から人々の住むに適した土地だったのだろう。近世には海ぎわに多数の酒造り屋が集まって、灘五郷の内の魚崎郷、御影郷を形成していた。いまでもその盛業ぶりは変わらない。

待つことしばらくして拝殿に進み、いつものように手を合わせた後、おみくじを引き(末吉を確認してから)、お神酒と、それに甘酒も欲張っていただく。日頃生活の中ではもう経験することの無くなった焚火がバチバチとはじけて燃えるのを懐かしく耳に聞く。

子供らが小学生の頃は一緒に参詣したものだが、すでに親離れした彼らはいい歳をしているのに、カウントダウンに加わるのだと言って早くから三宮まで出掛けてしまった。それもよし。カウントダウンといえば、老生もかなり前にマドリードのソル広場で詰めかけた市民に混ざってワインの瓶を片手に騒いだことがある。フランコ政権の末期の頃で、思い返せばいまの息子たちと同じくらいの年齢だった。

神戸市民が初詣に向かうのは生田神社、湊川神社などが主なところだが、わが故郷では吉備津の稲荷神社が有名だった。ただし老生はそこに参詣したことはない。いつも住まいに近い東山の玉井宮が参詣先だった。正月早々から人波に揉まれるのはよしとしない。元旦の雑煮を済ませた後、小さな書斎の陽だまりのなかで、書物を広げるのが最も好ましい。

いま読んでいるのは夏目鏡子述松岡譲筆録『漱石の思い出』(文春文庫)である。木曜会という名目で仲間と漱石の読書会をしているが、無数にある評論(漱石論)の類は、老生は一切読まないようにしている。作品そのものだけに直に当たりたいからである。漱石の全集版の各作品に付いている小宮豊隆の解説も読まない。前掲の『漱石の思い出』も読むつもりはなかったが、次の木曜会で取り上げる予定であるので、仕方なく読んでいる。しかしこれはこれで面白い。『明暗』の冗長さを病魔との関係でどう捉えるか、言ってみれば、作品の出来具合と作者の私的生活とを何處まで関連付けて考察してよいか、これは作品評価の上で大きな問題となる。ギリシア悲劇のような古い時代の作品の場合、作者に関する情報はどんな片言隻句でも珍重するものだが、考えてみればそれが作品の真っ当な評価に繋がるか否かは、実は疑問なのだ。
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2019年01月15日

[vol.39]忘年会

師走である。師が走る季節である。当方は、しかし5年前に退職したから、もう走る必要がなくなった。とはいうものの、それなりに忙しいことは忙しい。その点は以前と変わらない。ただ無暗にあちこち走り廻らないだけである。

中旬に3日連続して忘年会があった。その1。JR神戸線に甲子園口という駅がある。
駅南口にちょっとした商店街があり、その中に「えんぐち」という居酒屋がある。愚生含めて3人、耄碌三銃士が寄って飲んだ(ダルタニヤンは欠席)。極小規模の忘年会である。いずれもかつて同じ職場にいた者同士、時々寄って無事を確かめあう仲である。居残って威張り続けている元の上司をさんざ腐して酒のアテにし、バイトの男子が某大学野球部の投手だと聞いて、いずれ甲子園で勇姿を見せろと激励(!?)する。

翌日は阪和線で一路和歌山へ。かつて部長職を務めていた県立医大ヨット部の追いコンに参加する。場所はJR和歌山駅前の居酒屋「梅屋」。OBその他を入れて総勢30余名が集う。部員集めに苦労した昔とは隔世の感あり。当時主将として部を引っ張っていたのが、いまや南和歌山医療センター院長になり、和歌山県セーリング連盟の会長になっている。現部員に、近い将来オリンピックに出場しそうなのが男女一人ずついるという。楽しみである。追い出されてゆくのは4人。来春3月にはその4人全員が和歌山の地を離れるという。その身はいずこにあろうとも6年間馴染んだ和歌浦の爽やかな水の感触は忘れることはあるまい――そんな餞(?)の言葉を贈る。家に帰り着いたら12時を回っていた。

引き続いて3日目は大阪梅田の北新地。例の「阪神教育問題懇談会」の忘年会。処はいつもの「ふ留井」。ひとり(酒豪のスペイン演劇研究者)はよんどころ無い用事で名古屋まで出掛けて欠席だが、残りの4名がそれでも賑やかに甲論乙駁し、また麗しき熟女の女将と大阪漫才を繰り広げながら今年を締めくくる。いつもの献立に加えて本日の一品はオコゼの煮つけ。一同満足の内に酒が進む。

忘年会も3日連続となると、老体にはさすがに応える。それでも若い学徒との交歓には老醜の身を一瞬若返らせる魔力があるし、教育問題懇談にかこつけて昨今の巷の弊風を嘆じて声高めれば、身の内に籠り胸塞がらせる雑念も吹き払われて身も心も軽くなる。この効用のあらばこそ年末には師も、いやそうでない者も、同憂の士を求めて走り回るのだ。

年の瀬30日には餅つきに誘われている。秋にギリシア悲劇『メデイア』を上演した劇団「清流劇場」の毎年恒例の行事である。メデイアが舞台上でむしゃむしゃ食べたのはホットケーキだったが、いやそれはそれとして、この年忘れ餅つき大会には万障繰り合わせても参加せねばなるまい。
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