文学全集の月報と文庫本の解説とを寄せ集めてこしらえ上げた500ページになんなんとする大冊である。題して「百鬼園先生―内田百闡S集月報集成」(佐藤聖編、中央公論新社、2021年1月)という。
何巻にも及ぶ大部の文学全集はおおむね月に一冊のペースで刊行されるが、各巻にはその都度月報がつく。月報に載るのは知人、友人はじめ作者ゆかりの人々から寄せられた寄稿文である。こぼれ話、裏話の類ばかりではない。書誌学的にみて貴重な資料となりそうなものも時にはないわけでもない。
本書はそれらを集めて一本にしたものだ。帯に、「総勢87人が語る『私の内田百閨x」とある。
そも月報とは何か?作品本体からすればそれに帰属し寄生する付録のような存在だろうが、そこにそれなりの独立性がないわけではない。それだけ取り上げて読んでも面白い。月報が面白いのは、本体が問題含みで面白いからでもある。本体の面白さに魅かれて月報もまた面白くなる。
じっさい百閧ェ書くものは面白い。それに魅かれて読んでいるうちにだんだん入れ込んでいってしまう。もし我に月報の注文が舞い込めば一筆書いて進ぜよう、などという気にさせられてしまう。いや、少なくとも月報執筆者があたかも仲間のように思われてくる。そして月報が誘い水となって、書架から本体を取り出して再読することになり、そのままそこへのめりこんで時を忘れる。
ひょっとしてこの月報集成の企画者は、そうした百闢ヌ者に共通の微妙な心理状態を見透かしていたのではあるまいか?いや、百閧セけに限らない。誰であれ特定の作家を愛読する者は、作品の隅から隅まで読み尽くす愛読者は、月報を機にもう一度至福の時に戻っていくということが、けっこうあるのではないか?とりあえずは百閧愛読する諸氏よ、ぜひとも本書を繙いてみられよ。
ところでさて、まことに下世話な話で恐縮なのだが、この本の印税はどこにいくのだろうか?87人の執筆者が各自それを要求して、要求通りに割り当てられるのだろうか?いや、月報も煎じ詰めれば百閧ニいう大看板かつその大文章あってのことだから、87人全員が借金大王なる百關謳カにすべて上納することになるのだろうか?「王のものは王に返すべし」とどこかの古賢がのたまもうていたような気がする。
出版不況のこのご時世、月報集とは本づくりの妙手だが、好評増刷の後始末をさてどうするか、他人事ながらいささか気にはなる。
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