これが書かれたのは1884年11月である。翌1885年1月にベルゲンで初演された。作者56歳。晩年の作といっていい。ちなみに『人形の家』(1879年)の6年後であった。
製材工場を営む富豪ヴェルレの息子グレーゲルスが山の上の仕事場から久しぶりに戻ってくる。それを祝うパーティーから劇が始まる。登場人物は互いに錯綜している。ヴェルレとそのかつての友人で、今は落ちぶれてヴェルレの好意で何とか生きている老人エクダル。エクダルの息子でグレーゲルスの友人でもある写真屋のヤルマール。その妻ギーナ(彼女はかつてヴェルレ家で女中奉公をしていた)。その娘、14歳の少女ヘドヴィク。
ヴェルレとエクダルは国有林の伐採をめぐる事件後、成功者と没落者とに分かれ、エクダルの息子ヤルマールはヴェルレから経済的援助を受けて写真という新技術を習得し、新生活を始めている。しかし妻のギーナはヴェルレの愛人だった過去があり、娘ヘドヴィクもヴェルレの種らしき兆候がある。ヤルマールはそれに気づいていない。
山から下りてきたグレーゲルスは濁世ともいうべきそうした下界の市井の巷で一人得々と「理想」を標榜し、誰彼なしに説いてまわる。ギーナの秘密をヤルマールに漏らし、それを深い心で受け止め許してこそ理想の結婚生活、理想の夫たり得るとする、ヤルマールの苦悩はいっさい頓着せずに。この独りよがりを冷ややかに見る飲んだくれの医師レリングは「生きるためには嘘が必要だ」という。
19世紀末、ようやく市民社会が根付き始め、市民に自立の意識が生まれ始めた時代の市井の人間界、いわば濁世に生きる庶民の生態が悲喜劇的に展開する。しかしヤルマールのような悲劇的状況に落ち込んだ人間が、その状況を全身で受け止めて意識的に追及することはない。彼は自ら意識して悲劇を演じることはない。妻の秘密を知った後もそのまま中途半端に生き続ける。そう見える。
グレーゲルスは「理想」を旗印にして最後まで喜劇を演じ続ける。真面目に演じれば演じるほどますます喜劇的になる喜劇を。
この世は悲劇である、と一方的に見切ることはできないし、喜劇でもあるとしてしまうこともできない。人間の生活を、人間社会を、包括的に描けばそうなる。
中途半端なヤルマールは、その中途半端さのゆえに近代現代社会の主人公たり得る。「人間、生きるには嘘が必要だ」というレリングの達観したような総括は正直一途の「病人」グレーゲルスの処方箋となり得るものだが、ときには泣き崩れたくなるヤルマールにとっても格好の特効薬になるだろう。それは悲喜劇が錯綜する今の世を生きるわたしたちにとってもそうである。
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