元祖のヘラクレスは死者を蘇らせる力をも有する。エウリピデスが残したギリシア劇『アルケスティス』(前438年上演)では、アドメトスの身代わりとなって死んだアルケスティスを死神と格闘して生き返らせるという離れ業を演じる。「死と生」をテーマとはするものの、これはいわゆる通常の悲劇ではない。作家一人に許された上演4作品の最後の4作目サテュロス劇(山野の精サテュロスが卑猥な仕草で笑いを取る口直しの小篇)の代用作品とされているものである。たしかにサテュロスが登場しないからサテュロス劇ではなく、その代用品であるが、さりとて単なる笑劇でもない。もっと何かありそうだ。
ヘラクレスが奮闘してアルケスティスは死の淵から奪還される。その妻をアドメトスは大喜びで迎える。ペライの町に安寧が戻る。大団円。そこで劇の幕は下りる。作者エウリピデスは意地が悪い。ここで筆を擱き、「その後の二人」を描いていないからだ。彼らは今後どう向き合って生きるのか。アルケスティスは再生して得た二度目の生をどう生きるのか。アドメトスは死せる妻アルケスティスを哀惜すること尋常ではなかった。その妻を再び得た彼の喜びは大きい。それはわかる。だがその妻を、自分の身代わりとなって死にかつ再生した妻を前にして、このあと彼はどう生きて行こうとするのか。それが問題だ。それは喜びばかりではないはずだ。そうではないか。
『アルケスティス異聞』(劇団清流劇場7月公演)では、蘇生後三日目の朝アルケスティスはひとり家を出る。ノラのようだが、ノラではない。ドアを後ろ手に閉めながら「やめようかしら」とも言わない。ただ出て行く。
自らに下された死の運命と妻の身代わりの死と再生に翻弄されたアドメトスは、いま訪れた妻との生別を前にして自らの生と死との「向き合い方」を初めて考え始める。
考え始めざるを得ない。
エウリピデスの『アルケスティス』のヒュポテシス(古伝梗概)は、劇の「悲劇的な調子が最後は喜びと楽しさに変わる」とし、だからこの劇はサテュロス劇風だというが、はたしてそうか。喜びと楽しさを素直に味わい得ない観客はアルケスティスに、アドメトスに、そして自分たちに与えられた三日間を、あれこれ考える。『アルケスティス異聞』はそのひとつの解答例である。
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