2018年04月15日

[vol.21]続々・観劇記

劇団清流劇場の平成30年春季公演はスイスの劇作家マックス・フリッシュの『アンドラ』(市川明訳、田中孝弥演出)で、3月7日から11日まで天王寺の一心寺シアター倶楽で上演された。その最終日を観た。

劇の場は架空の小国アンドラ、時代は現代。主人公アンドリは里親の教師カンの許で幼少のころからユダヤ人として育てられるが、実は里親カンの婚外子である。ユダヤ人ではないのにユダヤ人として育ったアンドリは社会からいわれのない差別を受け、最後には殺される。
ごく普通の素朴な市民による差別。アンドリが非ユダヤ人であることを知らぬままに誤った認識によってなされる差別。事の真贋を究めることなく、ただ自己保身に走る冷酷非情な市民社会。古今東西を問わずいつの世にも存在する一般市民による身勝手な選別意識。それが適確に表示され、突きつけられ、観客は判断を迫られる。

元はといえば、一連の騒動はアンドリの実父である教師カンが他国で妻以外の女性に生ませた子を(なぜか)「ユダヤ人の子」と言い繕ってアンドラ社会へ連れ帰ったことに起因している。人種差別(ユダヤ人問題)という大テーマ以前に、じつは婚外子をめぐる個人的かつ家庭的悲劇の素がすでにしてある。

ユダヤ人選別と排除の歴史は古い。ナチスの時代のナチスの暴虐だけに止まるものではない。ユダヤ人選別がこの劇の大きなテーマであることは明白だが、しかし劇はまず教師カンのきわめて個人的な思いなしに始まる。そしてそれは、本来ならば、家庭の悲劇として展開していくはずである。その過程で人種差別という大きなテーマが登場するかもしれないが、つまり個人的な家庭の悲劇が広範な人間悲劇、市民社会全体を取り込む社会悲劇に変貌することは決してないとは言えないが、それにしてもいまの場合この二つの悲劇をくっつける、その手管はいささか安直にしてかつ無様である、と言わざるを得ない。

教師カンが生みだした家庭悲劇は、それだけで独立した作品として成立し得る。そこにユダヤ人差別の問題を繋げることに意味がないとは言わないが、それにはまずカンがなぜアンドリを「ユダヤ人の子」としたのか、そのときのカンの心情がじゅうぶんに掘り下げられて表示されねばならないだろう。
ユダヤ人差別の状況、結果――それは多くの場に置いてすでに存分に表示され一般に周知されている――よりも、それの起因要素こそ明示されねばならない。アンドリに対する市民の差別の淵源は実父カンの誤った処置にある。われわれは市民の非情を責めるまえにカンの軽薄な無思慮を批判しなければならぬだろう。そこにもし何らかの理由があるなら、それが明らかにされねばならない。それを書けば、それだけできわめて上等な悲劇作品が仕上がるはずだ。

客席は満員の盛況。千秋楽、俳優陣はセリフ、仕草とも練れてきて快調、そして熱演。全12景、休憩を挟んで2時間半の長丁場を乗り切った。鼻持ちならぬ悪女の医師を怪演した林英世、やくざな兵士パイダーの田村K−1、白痴の上海太郎らが印象に残る。

付け加えたい。千秋楽の2日後、第20回関西現代演劇俳優賞の授賞式があり、林英世氏がめでたく女優賞を受賞された。2日前の医師役の熱演もむべなるかな。心からなる拍手を送る。
posted by 出町 柳 at 10:00| Comment(0) | 読む・歩く・飲む
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