2017年12月15日

[vol.13]海の日の沈むを見れば

縁あって名古屋の南、知多半島まで行って来た。行先は半島の南端の内海(うつみ)という町である。未踏の不案内な土地だが、新幹線1時間、名古屋で名鉄特急に乗り換えて1時間、まことに簡単に、短時間で行ける。

終着の内海駅から迎えの車で10分、小高い丘の上に棟続きの10軒のコテージがある。この宿泊施設全体を称して「海のしょうげつ」という。その一軒で、一泊二日、景色と食事を楽しみながらゆっくり過ごそうというわけである。

好天だった。しばらく寒い日が続いた後の珍しいほど暖かい日だった。着いてすぐ庭先にしつらえられた露天風呂に入る。眼前には伊勢湾の海面、遥か彼方には三重の津の町がかすかに横たわるのが見える。

「名も知らぬ遠き島より流れ寄る椰子の実一つ……海の日の沈むを見れば、たぎり落つ異郷の涙……」と島崎藤村は歌ったが、その場所は、しかしここではない。

ここの南方に、ちょうどこの知多半島と直角に交わるように、東から真直ぐ渥美半島が伸びて来ている。その先端が伊良湖岬である。その伊良湖岬に一時滞在していた民俗学者の柳田国男が浜辺に流れ着いた椰子の実を見つけ、そのことを東京へ帰ったとき島崎藤村に話し、それをもとに藤村が詩作したのが国民歌謡『椰子の実』だと言われている。作曲は大中寅二である。

藤村も椰子の実も、どうやら内海町とは無関係である。実が漂着したのは伊良湖岬であって、内海町ではない。実を見たのは柳田国男であって、藤村ではない。それはそうだが、しかし内海町の遥か南方の洋上にも同じく椰子の葉繁る島があるはずだ。
そこを出た椰子の実が内海町に流れ着くことも無しとはしない。それをまた誰か詩人が歌うこともあるだろう。ただ露天の湯船のなか、西の方遥かに夕日が沈むのを見ても、わが涙たぎり落ちることはなかった。

夕食の献立表には「平成29年霜月、秋の空・知多の海 澄み渡る頃」とあり、天然河豚、伊勢海老、飛騨牛その他の珍味が続く。合わせる酒は尾張の銘酒「九平次」。
香りがフル―ティ、味はやや強く、そっけない。尾張の国名古屋が天然河豚の産地であるとは初めて知ったが、それも含めてすべてに堪能した。

その昔、伊勢の鳥羽から伊良湖岬までフェリーで渡ったことがある。苦い旅だった。
もっと昔、いや古代ギリシアの話だが、テセウスはクレタ島のミノタウロスを退治した後、自分に惚れ込んだアリアドネを連れてクレタ島を出帆し、ナクソス島に至る。そこでアリアドネを置き去りにし、単身アテナイへ帰る。この件の後始末をしたのはディオニュソスである。アリアドネはディオニュソスと結婚して神妃となった。

テセウスはアテナイへ帰航する際、クレタでの仕事の無事遂行を表示するために白帆をマストに掲げる約束だった――伝承ではそうなっている。が、詩人シモニデスはこれを赤い帆に変えた。

勢い盛んな橿(かし)の木の/花の雫で染めあげた/紅(くれない)の帆布
(シモニデス 断片550)


アリアドネはテセウスに捨てられたのか、いや、彼女のほうから「別れましょう」と言ったのか。きらめく海面と秋の風がよしなしごとを思い起こさせる。
posted by 出町 柳 at 10:00| Comment(0) | 読む・歩く・飲む
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