2017年11月01日

英雄の妻

ギリシア神話伝説中で最強の男、といえばヘラクレスを置いて他に誰もいない。12の功業といわれる冒険行を筆頭に、世界中を渡り歩き、いや冥界にまで足を踏み入れ、数々の悪漢怪物怪獣を退治して英雄の名を欲しいままにした(その遥か後裔が「灰色の脳細胞」を駆使して今なお活躍中であることは諸賢よくご承知のところであろう)。

このヘラクレス、また並外れた大酒のみ、大飯くらいであったことが知られている。

女神(ペルセポネ)が、あなた(ヘラクレス)の到着を知るとすぐに/パンを焼き、つぶし豆のスープの鍋を二つ三つ火に掛け、/牛を丸ごと炭火であぶり、/平ケーキや丸パンを焼きました。
(アリストパネス『蛙』503〜507行、内田次信訳)

(ヘラクレスは)酒甕3個分はたっぷり入る/酒杯を取り上げ、/口にあてがい呑み干した、彼のためにとポロス(ケンタウロス族の一人、引用者注)が/水と和えて手渡した、その酒杯を。
(ステシコロス『ゲリュオン譚』断片181)


しかしこのヘラクレス、飲食に執心するあまりに周りの空気が読めず、つい粗相をしてしまうことがある。

おい、そこの者、なぜまたそんなむつかしい、思いつめた顔をしておるのだ。/使用人の分際で客に仏頂面を見せるでない。/心底愛想よく迎えるものだ。/[……]さあこれを聞いておれさまの言うことがわかったら、/わが身のいまあるを嬉しと思うて、飲め、今日の命だけが/おまえのもの、それ以外は運まかせと心得よ。/[……]さあ、悲しみよさよならだ、/おれといっしょに飲まんか、悪運を乗り越えるんだ。/花環を頭に乗っけてな。
(エウリピデス『アルケスティス』773〜796行)


友人アドメトスの亡妻アルケスティスの葬儀の日に偶然来合わせたヘラクレスは、弔事を知らされぬままアドメトスから歓待される。元来飲食に目が無いヘラクレスはいやに静寂な邸内の様子をいぶかりながらも、つい度を過ごして酔余放歌高吟するに至る。世に無敵の勇者でありながら、時に見せるこのネジの弛み具合が巷間人気を呼ぶゆえんだろう。

行くところ敵なしの強者ヘラクレスが、あるときパタリと死ぬ。か弱い女の手で、長年連れ添った妻の手で。このことはソポクレスが『トラキスの女たち』という作品で書いている。その様以下のごとし。

冒険の旅の先々で女出入りもあった。エウボイア島のオイカリアの町の王女イオレもその一人である。ヘラクレスが連れ帰った若い乙女イオレを見て、「これは夫の愛人ではなかろうか」と妻デイアネイラの心が騒ぐ。彼女は夫の心を繋ぎ止めようと、手元にあった媚薬を用いる。しかしその媚薬の実体は、かつてヘラクレスに退治された怪物ケンタウロスの復讐心が込められた毒薬だった。それを彼女は夫ヘラクレスの肌着に塗り付ける、毒とも知らずに。ヘラクレスは身もだえし苦しみつつ死に向かう。人間界最高の勇者ヘラクレスがか弱き女の手で倒される。愛を取り戻そうとして使われた薬が、実は毒だった。このあと妻デイアネイラも己の行為の思いもよらぬ結果に驚いて、自死して果てる。

夫の愛を失ったと思った妻が媚薬という名に唆されてそれを夫に用いた、留守がちで自分勝手な夫を、そうすることで繋ぎ止めようとして。「つつましやかでも幸せな家庭が欲しかったのだ」と。

いや、本当は毒薬であることを、彼女は知っていたのではなかろうか。夫を殺し自分も死んで、それによって夫を自分の手に取り戻そうとしたのだ。

いや、媚薬か毒薬か、半信半疑だったのかもしれない。もし媚薬ならその効き目で夫は戻って来る。毒薬であるとしても死が夫を妻の許へ返す。どちらにしても夫は戻って来る、こう踏んで彼女は薬を使ったのだ。媚薬なら良し、毒薬でもまた良し、と思いつつ。

英雄の妻を演じるのは、彼女には荷が重すぎた。

今宵の食卓に上るのは「クーロス」という銘柄のギリシア産の赤ワインである。決して高価な品ではない。だが飲み心地は悪くない。驚愕、狼狽、そして覚悟――デイアネイラの心は那辺にあるのか。ほろ酔いの羅針盤はいずこを指すのか。
posted by 出町 柳 at 10:00| Comment(0) | 読む・歩く・飲む
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