ギッシングは『ヘンリ・ライクロフトの私記』のある章で「私は植物学者ではない」と書き出しながら、しかし散歩の途次に出会ったいろいろな植物の上に輝く春の色を嘆賞している。なるほどその観察は学者のそれではない。が、そこには植物好きな文人の季節の自然を楽しむ心の様子が存分に見て取れる。
拙宅の庭にひともとのアーモンドの木がある。これが早春に花をつけた。裸か木全体が真っ白の花におおわれる。花芯は赤いから離れたところから見ると純白の花むしろにすこしピンクのいろどりが混じることになる。一週間か十日の間、満開の花が目を楽しませてくれた後、散り始める。樹下に花弁が散り敷き、代わって樹上には薄緑の若葉が生まれ出て、見る間に天上へ向かって伸びていく。
ゴッホも南仏のアルルでこの花を描いた。明るい南フランスの青空を背景に群がり咲くアーモンドの白い花。アーモンドだけではない、果樹園の花をつけたアンズやスモモも描いている。100年ちょっと前の、ちょうど今頃である。
春を告げるのは花ばかりではない。鳥もそうだと、古の詩人は言う、
香も甘き春の訪れを告げる/おなじみの使者/濃紺(あお)い背広の燕(つばくろ)よ(シモニデス)、と。
われわれの感覚では燕の飛来は初夏である。地中海域では温暖の度合いが違うのだろうか。
わが庭でアーモンドより一足早く咲き終えたのはサクランボである。丈1メートルほどの灌木ながら枝一面に薄紅色の花をつけた。花のあと今びっしりと小さな緑色の実がついている。いずれはこれが熟してサクランボの実となるのだろう。しかし例年こちらがそれを口に含むより前に、大小の鳥たちがやって来て啄んでしまう。鳥が来るのは歓迎すべきことだが、丸坊主にされてしまうのはいささか困りものだ……という気がする。
サクランボの隣にはオリーヴがある。これがまた毎年背丈を伸ばす。パレットの上に絞り出した緑色の絵の具に白色の絵の具を混ぜてつくった色合いの、槍の穂先のような精悍な葉が天に向かって突き上がる。木は1本しかないから実はつかない。いずれ初夏の風が吹くころには灰緑色の葉裏を見せるだろう。
サクランボの花も、アーモンドの花も、また来年の開花が待たれる。毎年楽しみにしている近所の家の桜――その枝が垣根を越えて歩道に張り出している――もそろそろ満開になるはずだ。昨今の悪疫流行で陋屋に蟄居している身だが、これだけは見ておきたい。くだんのギッシングは「春は長いこと忘れていた青春の力をほのぼのと蘇らせてくれた」と書いている。ああ、そのとおりだ、たとえ「花と咲く青春を取り戻すのは至難の業」(バッキュリデス)であるとしても。
2020年04月15日
[vol.63]花咲くアーモンドの木
posted by 出町 柳 at 10:00| Comment(0)
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