ギリシア語の初等文法を上げたとき、担当教師M(哲学の助手。この人は山本修二が主宰するアイルランド劇研究会の有力会員だった)と履修生7、8人とが繰り込んで遅くまで飲んだ。演習授業でプラトンを読んだときは、担当の非常勤講師のこれまたMが、たった2人残った我ら履修生を連れて行ってくれた。京都で学生時代を過ごした先輩たちには若い頃からすでに馴染みの店だったらしく、卒業後も折に触れて利用するのは後輩たちへの引き継ぎを兼ねた、いわば伝統的行事であったらしい。戦後の闇市を潜り抜けてきた彼らは、闇焼酎を梅酒で割った「梅割り」やドブロクから飲むことを始めたという。そういう先輩と接していると、話しの端々に学科が少々不出来でも「あいつは酒が飲めるから」と点を甘くしてくれるところがあった。
品行方正にして学識豊かな方々が一方にいたことはもちろんである。そうした諸先生は何か一つ読み終わっても打ち上げと称する酒盛りをすることはなかった。いや、そうした碩学でも祇園から人力車で大学へ講義に通ったという九鬼周造がいたし、戦後でも毎夜祇園で飲んでいた大山定一なんて人もいた――そういう噂がある。学生と一緒に飲む飲まないは別にして、酒好きの教授はいたわけである。
森泰三という小説家をご存じだろうか。ある期の芥川賞の最終審査にまで残った人だが、残念ながら受賞を逸した。その期は受賞者はなく、森泰三はもう一人の清水某と同点二位だった。この森泰三が上に上げた二人目のMその人である。一方でプラトンを読み、一方で創作の筆を執っていた。この人には筆者は折に触れてお世話になった。信州戸隠のその山荘に押しかけて一夜飲み明かしたこともある。もう少し売れてからあちらに行ってもよかったのに、と今にして思う。
「静」のある裏寺町には、戦前「正宗ホール」という居酒屋があった。三高生だった織田作之助が書いている。
崩れ掛ったお寺の壁に凭れてほの暗い電灯の光に浮かぬ顔を照らして客待ちしている車夫がいたり、酔っぱらいが反吐を吐きながら電柱により掛っていたりする京極裏の小路を突き当って、「正宗ホール」へはいった。
そこも三高生の寮歌がガンガンと鳴り響いていた。(織田作之助『青春の逆説』)
やがて鼻の大きな男が
「どうだ、この学生と一緒にガルテンへ行こうか」と顎の尖った男に言った。
「良かろう。面白い。可愛いからね」
そして豹一らの分まで無理に勘定を済ませると、
「どうです? 一緒に行きませんか」割に丁寧な物の言い方で言った。
「どこでも行きますよ。畜生!」赤井はやけになってそう叫び、黙ってむつかしい顔をしている豹一の傍へ寄ると、
「行こう。面白いじゃないか。ガルテンと言うのは祇園のことだ。園は独逸語でガルテンだろう?」耳の傍で囁いた。(同上)
昭和の初め、世相はだんだんと険しくなっていくが、一方にまだこんな世界があった。いまではまずこんなことはないだろう。豹一や赤井はいるが、鼻の大きな男や顎の尖った男はいかに京都でももういないだろうから。