2018年08月15日

[vol.29]捜す

必要があってものを捜しはじめるが、たいてい見つからない。本の場合もそうである。「あ、あれは持っている、捜せば出てくる」と思って捜しはじめるが、なかなか出てこない。どこかにもぐり込んだとみえる。

わが茅屋は小さい。わが居室は狭い。そこに所有する本の全てを放り込んでいる。壁際の本棚だけでなく机上、机下にも積み上げている。といって筆者は蔵書家ではない。ないが、本というものはいつの間にか溜まってくるものだ。稀覯本の類はない。おおむね必要に迫られて求めたごくふつうの市販本である。それでもぜひ読みたいと思うものがあって書架のあるべきところに当たってみると、ない。どこかに仕舞い忘れたのだ。捜索をはじめる。机の下までひっくり返すが、みつからない。

種村季弘という男がいた。ドイツ文学者だったが、それに加えて一種独特の評論活動によって広く世に知られた。一種独特というのは、取り上げる題材が主としてドイツ文化圏の綺譚――魔術師、詐欺師、山師、錬金術師、怪物、吸血鬼、奇人などにまつわるいかがわしくも魅力的な話であるからだ。

その種村の編集による「日影丈吉選集」(河出書房新社、1994〜1995年)が5巻本で出ている。種村と日影、一見妙な取り合わせにみえる。日影は戦前のアテネ・フランセでフランス語、ギリシア語、ラテン語を学び、フランスに渡って料理修行もしたらしく、帰朝後に料理界で名を売った人。作家としては端正なモダニズムの作家という印象があるが――ジョルジュ・シムノンのメグレものの翻訳もある――、作品は土俗的な民話を主題としたものがけっこう多い。このあたり種村と通底するものがあるのかもしれない。その5巻本の第4巻が、どこに紛れ込んだのかみつからないのだ。それで困っている。

日影丈吉をいったいいつごろから読むようになったのか。初出の発表誌が「宝石」、「推理ストーリー」、「オール読物」などだから、これまであまり馴染みがなかった。また種村の好む民話や土俗的な素材にも、さほど関心があるわけでもなかった。ただ中に戦前の台湾を舞台にした作品がいくつかある。おそらく作者日影が軍隊時代に駐留していた植民地台湾での生活体験によるものだろう。これがおもしろい。

植民地文学というジャンルを立てるとなると大げさであるし、日本文学の中にはたしてその名に値するような作品群があるかどうか疑問でもあるが、日影が台湾を舞台に描いた作品には植民地台湾における現地人と日本人、と言ってもこの場合は日本軍の兵士たちだが、その両者の交流の様子がてらいなく淡々と描き出されている。

台湾は日清戦争以降50年間日本の支配下にあった。そしてその支配が比較的良好に推移した地域だった。太平洋戦争の末期になっても政治的軍事的情勢はさほど切迫したものではなかったようだ。『騒ぐ屍体』や『ねずみ』などを読むと、そうした中での現地人と駐留日本軍兵士とが織りなす人間模様が細やかに写し出されている。時に土俗性というフィルターが掛けられたりするが、根本のところは人間生活一般に共通する情念の迸りである。それはいまでも、またどこにでもあることだ。

自分たちとは違う異邦人の生活、異なる習俗にどう向き合うか、それを短期滞在者の手になる単なる報告に終わらせず、異邦の地に暮らす者の生活感が漂いはじめているかのように思わせる点が、悪くない。いや、しょせんは支配者の側の視点からの報告書に過ぎぬというなら、それはそれでよし、それでもこれは良質の報告書だろう。

地域の夏祭り見物の帰途、焼き鳥屋に寄る。焼酎の水割りを飲み、ネギマなどをつまむ。
posted by 出町 柳 at 10:00| Comment(0) | 読む・歩く・飲む

2018年08月01日

[vol.28]カルメン尋ねて

「母を尋ねて三千里」というのが昔あったが、カルメン尋ねては、三千里も行くことはない。すぐ近くの神戸、三宮だ。30分少々もあればじゅうぶん行き着ける。この場合、断っておくが、カルメンというのは人名ではない。スペイン南部の情熱的なジプシー女を思い浮かべられると、ちと困る。カルメンは場所の名前、もっと正確に言うと、スペイン料理店の名前である。
5月にあったさる会合で、50年ほど前に知り合った男Kがいま偉くなって医院を開き、月に一度趣味で(だろうと思う)スペイン料理店「カルメン」でフラメンコギターを弾いている、という話を聞いた。その店が三宮にあるというのである。それを捜しに出かけて行った。
知人にスペインに詳しい男がいる。スペイン演劇研究家T氏だ。今年の春もスペイン現代劇の公演を観るためにひと月近くマドリードに滞在していた。彼に訊くと「カルメン?知ってますよ」と言う。昔からの馴染みの店だと。彼に案内されて行く。あった。生田神社の東南、線路際を北へ少し入ったところに「カルメン」はあった。
昔の純喫茶店風の小暗い室内。そんなに広くはない。毎週土曜日にフラメンコダンスの実演があり、古い知人Kはその伴奏に出て来るのだという。
片隅のテーブルに座を占めて、まずはマドリード産のセルべサ(ビール)「マオウ」で乾杯する。イケる。店推薦の卵料理フラメンカエッグ、タコのアヒージョ、イカの墨煮などをつつく。一緒に付いて来た家人はパエリャを注文する。ビールの後はやはりワインとなり、よく冷えた白(ラベルはMaroues de Riscalと読める)、常温の赤(San Martinと読める)、それぞれ一本ずつを3人できれいに空ける。
思い出した。以前この3人はマドリードのホテルのバルでビール(銘柄はサンミゲルだったと思う)を飲んだことがあった。筆者と家人はツアーに乗って当時マドリードにいた。夏だった。知人は仕事でバラハス空港へ着いたばかりだった。マドリード市内の宿に荷物を置いて、われらのホテルまで駆けつけてくれた。われらは翌日から南のコルドバへ下る予定だったから、知人と飲めるのはその時しかなかったのだ。ふだんは大阪の枚方あたりでよく飲んでいたが、せっかくマドリードで会う機会があるんだからマドリードで飲もうということなのだった。
筆者もかつてマドリードの街をすこし歩いたことがある。グランビア東端の南にあった言語文化研究所に顔を出していたときは、昼になると近くの「どん底」(新宿「どん底」のマドリード支店?)へ行って、タコ酢にビールで慣れぬ地での生活の苦労を慰めた。古代ギリシア哲学のS先生夫妻が外遊途中に寄られたときは、奥方のためにそこで日本料理を供したこともある。
しかしマドリードの下町の食事、料理への通暁という点では上記の演劇研究家T氏に敵う者はいない――と言ってよいだろう。まずはマドリードの街そのものへの沈潜度、そして飲食への飽くなき探求心、旨く安くをモットーとするその姿勢、一度卓につけば見事なまでの酒豪、健啖家ぶり、そして同席者を飽かせぬ豊かな話題。まさに言うことの無い美食の狩人であり、美食の報告者である。願わくは、飲食の神よ、近いうちに彼とともにマドリードの下町を歩き回り、B級グルメに舌鼓を打つことができますように。
言い忘れたが、先のフラメンコギターを弾く医師Kは50年ほど前に初級ドイツ語の手ほどきをした男である。しかし彼はそのことも、ドイツ語そのものも、もう忘れてしまっているだろう。
posted by 出町 柳 at 10:00| Comment(0) | 読む・歩く・飲む