古代ギリシア文学史の劈頭を飾る叙事詩『イリアス』で活躍するギリシア軍の総大将アガメムノンの娘、それがエレクトラである。トロイア戦争終結後、アガメムノンは祖国ミュケナイの地へ凱旋するが、その当日に妻クリュタイメストラの手で惨殺される。娘エレクトラは他国に亡命している弟オレステスの帰国を待って母を殺し、父の復讐を遂げる。
この血なまぐさい復讐譚は3大詩人アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデスのいずれもが手がけ、そのいずれの作品も残存し、読むことができる。むろん三者三様の作品に仕上がっていて、それぞれの作風を窺うことができる。
アイスキュロスでは、共同体の秩序を司るものが氏族社会特有の力の正義から時代とともに市民社会の法の正義へと移行し発展するその過程に観点が置かれ、エウリピデスでは、力の正義を奉じて父の復讐に立ち上がったオレステスがそのために実の母親を殺すことの正当な理由を見いだせず、罪の意識に悩む姿が示される。復讐という大義に伴う私的な罪の意識の誕生とそれに悩む姿である。ソポクレスはただ淡々と復讐を敢行するエレクトラを描く。
なぜいま『エレクトラ』を、それもソポクレスのそれを読むのか。じつは舞台用の台本を作ろうという意図があってのことなのである。長い間ギリシア悲劇を読んできたが、昨今はそれを舞台に乗せて表現することに意を注いでいる。その場合、2400年前のアテナイの野外劇場とはまったく異なる環境で挙行することになる。それはそれで仕方ないが、それでも上演する意味はやはりある。2400年後の現代にも通用する意義を、どの作品も保持しているからである。時代を越えて生き続けるギリシア悲劇を、だから真の意味での古典と呼んでよいのである。
ただ一つ心せねばならぬことがある。古典により容易に気軽に接してもらい、かつ理解してもらうために、翻訳文の措辞文体をできる限り日常化すること、そして生きいきとした日本語にすることである。かつてもギリシア悲劇全盛期に居合わせたアリストパネスは、喜劇詩人の立場から、あるいは演劇界に精通した見巧者の視点から、リアリズムに徹するエウリピデスをアイスキュロスの対極に置いて称揚(と私見する)した。
たとえば喜劇『蛙』の中でエウリピデスにこんなことを言わせている。
エウリピデス さらに劇のはじめから無駄な話は一字一句置かないようにした。/わたしの劇では女も奴隷も、また主人も乙女も、老女までも/みな負けず劣らずものを言うのだ。(948〜950)
エウリピデス わたしは家庭で馴染みの日常のものごとを舞台にのせた。(959)
いきおい言辞様態もそれにふさわしい日常的、現実的、写実的なものとなる。加えて観客が耳に聞いて即座に理解できる平易な表現でなければならない。でなければ劇の脚本に、いや芝居の台本にならない。しかし一言しておくが、これはいわゆる「古典の卑俗化」では決してない。
それにしても劇作品の翻訳は難しい。英語を習いたてのころ、、あのハムレットのセリフ、To be or not to be. That is a question. をどう訳すか、訳してみろ、と先輩に言われたことがある。あれはいまどう訳されているのだろうか。舞台の上の役者に喋らせるにはどんな日本語がよいのだろうか。
某日、翻訳の筆を中断して甲子園球場へ出掛けた。DeNA相手の観戦切符が手に入ったからである。が、打棒まったく振るわず敗退。帰途阪神芦屋で下車して近くの居酒屋「をさむ」に寄る。白エビの天麩羅と莢ごと焼いた空豆などを抓みながら淡路島の酒「都美人」を冷やで飲む。