2018年03月15日

[vol.19]われても末に

神戸の阪急三宮駅東口を出て北野坂を北上すると、異人館街に到達する。その手前を東に折れ、徒歩1分、北側のマンション1階に「菱花」というカフェサロンがある。テーブル2、3脚とカウンターだけの狭い店だが、美味いコーヒーを飲ませる。カレーなどの軽食もある。店仕舞いが8時だから、原則として酒類はおいていない。

郷里の中学校の同級生で関西在住の者が毎年1回寄り合う会がある。総勢10名前後の小さな集まりである。その世話人でかつて商社マンだった男が、たまたま(らしい。なぜなら彼は豊中の住人だから)そこに立ち寄って気に入ったらしい。筆者にも「一度行ってみろ」というので、某日思い切って北野坂を上って行った。

難なく見つけてドアを押す。中は広くない。立派なカウンターがグッと出っ張るような感じで、恐らく以前はバーかスナックだったのを、喫茶店に転用した――どうもそんな雰囲気である。客はいなかった。同行の友人(上の同級生とは別の飲み友達)とテーブルに席をとる――と、出てきたマダムを見て驚いた。

15、6年前のことだ。阪急御影駅の近くのレストラン「蘇州園」での会合からの帰り道、御影駅改札口正面のビルの2階に飛び込んだ。「京風おでん」の看板に釣られてのことである。先の店で下地ができていたのに、いやそのせいで、さらに飲む量がずいぶんと進んだ。勘定のあと、貰ったマッチを見ると「菱花」とある。それを機会にそれからもちょくちょく通った。酒は大銘柄のものではなく、魚崎郷の中小の醸造場のものを多く置いていたように思う。「桜正宗」、「浜福鶴」、「泉正宗」、「福寿」などである。ところが、ある時行ってみると灯は消えて店仕舞いしていた。あっけない幕切れだった。

その時の女将がいま目の前にいる。テーブルの上にあるのはコーヒーカップだ。「あれからいろいろあって……」――話を聞きながらコーヒーを啜る。彼女は詩文を書くのが好きで(現に関西詩人協会会員)何冊か著書も出版しているが、
ようこそ/おいでやす/駒子が笑う/ようこそ/おいでやす/藍/駒子の着物

――こんな短い詩を書く――
昨今は店にファンを集めてシャンソンの会やら小唄の会などを催しているという。「あれから何がどうなったのか」、こちらは別に詳しく聞きただすこともなくコーヒーを飲み、「たいへんだったんですねえ」と言い、再会を約して店を出る。

古歌にあるように、「われても末に」思いがけず遭ったのだけれども、――ただそれだけのことで、こんなことはよくある話かもしれない。

陽が六甲の向こうに落ちる夕刻、飲み損ねたわれらは北野坂を下って来て、横道に逸れ、同行の友人が案内するおでんの店「たばる坂」に寄る。ここは質量値段とも言うこと無し、推奨できる。諸兄も三宮で飲みたくなったら、一度どうぞ。

さらにそのあと行きつけの鮨処、住吉の「真砂」でビールを飲み、帰宅。
posted by 出町 柳 at 10:00| Comment(0) | 読む・歩く・飲む

2018年03月01日

[vol.18]ある親爺の死

クセノポンに『アナバシス(一万人の退却)』という著作がある。前5世紀の末の頃、ペルシア王室の内紛に乗じてギリシアが出兵したことがある。しかし事はうまく進まず、けっきょく派遣軍は退却を余儀なくさせられる。その出兵と退却に伴う軍の諸相を忠実に記録したのが上記の書である。遠征軍の将が語る戦事の実録ルポルタージュといってよい。

クセノポンはソクラテスに師事した哲学徒で、プラトンの同窓生だった。それが妙なことからペルシア派遣軍に関わった。そしてその時のことを克明に書き記した。その中にこういう一節がある。

そこで直ぐにその二人を連れてこさせて、今見えている道のほかに別の道を知らぬかどうか、別々に尋問した。その一人は、さまざまな威嚇を加えられながらも、知らぬと言った。その男は何一つ役立つことを言わぬので、もう一人の男の面前で斬殺された。もう一人の捕虜の言うところでは、先の男には行く先の土地に嫁いで、夫と暮している娘があるために、知らぬと言ったのだという。
(クセノポン『アナバシス』4,1、松平千秋訳、筑摩書房)


退却するギリシア軍が小アジアで現地人二人を捕えて道案内をさせたときの話である。
不用意に口を開くと娘はギリシア兵らの略奪と凌辱の対象になるかもしれない。娘の身の上を慮った一人は沈黙を押し通したあげく死に至る。その死は、娘という愛の対象を護るために自らを犠牲に供した身代わりの死であるといってよい。

ギリシア悲劇によく出て来るのは、国家や民族のために、あるいは自らの信念のために我が身を捧げる死である。たとえばアンティゴネがそうである。彼女は国法よりも神の法(古くから人間生活を律する不文律)を重んじて国法に逆らい、死に赴くことになる(ソポクレス『アンティゴネ』)。

件の親爺の死は、そういう理念あるいは抽象概念のための死ではなく、娘という具体物のための身代わりの死である。このような死は小アジアに限らず、内戦中の前5世紀後半のギリシア本土でも数多くあったはずである。そして人間の生と死を的確に描き出すことを目的とする文芸家(文筆を以て芸術表現を志す人士)にとっては、これぞまさに恰好の題材となるはずのものだったと思われる。

文芸作家ではないクセノポンは事実をただ事実として記録し、報告した。それはそれでよい。一方当時アテナイには、ディオニュソス劇場を使って人間の諸相を描出する劇詩人がいたはずである。ところが彼らはこうした一般個人の死を取り上げて世に伝える術を持っていなかった。最も革新的だったエウリピデスでさえ成し得なかった。「無名の個人の死」は神話伝承を素材とするギリシア悲劇にそぐわず、親爺の「沈黙」は言語芸術である演劇の舞台に合わなかったのである。

親爺の死のような無名の個人の死、それでいて文芸上小さからぬ意味をもつはずの死は、ホメロス以来の朗誦の対象にもならないし、そうかといってデイオニュソス劇場の舞台に掛けられるものでもない。おそらくそれは各個人が各自に持つ「読書」という手段によってしか受容され得ないものであろう。

従来の朗誦や演劇に代わって「読書」という受容形態が登場するのは紀元前後の頃である。親爺には、それまで待っていてもらわねばならない。

今宵の晩酌2合の酒は、まずはあの親爺への献杯から始まる。
posted by 出町 柳 at 10:00| Comment(0) | 読む・歩く・飲む