2017年10月15日

[vol.9]大手饅頭

備前岡山の町を南北に縦断して旭川という川が流れている。中州が二つあり(東西ともかつて遊里だった)、そこを市内電車が通る大きな通りが横断していて、東から西へ小橋、中橋、京橋と三つの橋が掛っている。京橋については以前に荷風がらみで書いた(『コルマールからリヨンへ』参照)。その京橋を渡って20メートルほど行くと、西大寺町商店街目前の左手に伊部屋がある。

岡山におけるお遣い物の定番「大手饅頭」の本舗である。このあたり一帯は京橋にちなんで橋本町(いまは町名変更して京橋町というらしい)という。橋本町の伊部屋の大手饅頭といえば、岡山では小橋の東、中納言の廣栄堂のきび団子と並び称される銘菓である。いずれの店も古い。前者は創業180年、後者は160年だという。

私は度度、大手饅頭の夢を見る。大概は橋本町の大手饅頭の店に這入って、上り口に腰を掛けて饅頭を食う夢である。
早くから店を仕舞うと云う事を、子供の時に覚えているので、夢ではいつでも、もう無くなりそうで、間に合わないから、大急ぎと云う、せかせかした気持ちがする。
子供の時は、普通のが二文で、大きいのが五文で、白い皮の一銭のは、法事のお供えだと思った。
大きくなってからも,県中の時も、六高の時も、大手饅頭はしょっちゅう買って来て食った。
二三年前、続けて夢を見た後で、あんまり食いたかったので、帰郷する友達に、今度東京に来る時、お土産に買って来てくれと頼んだ。
(内田百閨w郷夢散録――大手饅頭』(『幼年時代』福武文庫 112頁))


この銘菓を子供時分に買いに走るというのは、いかにも裕福な造り酒屋のボンらしいが、われわれ貧乏長屋の小倅にはとうてい真似のできないことだった。時代も時代、戦後間もない頃だったから、あの高級な甘みを味わえるのは、到来物のおすそ分けのそのまた一部にありついた時くらいだった。大人になってからは土産の品によく使った。

ふた口くらいの量の餡子を白い薄皮がぴたりと張り付いて被っている。皮を通して中味の暗褐色の餡子が見えている。日持ちがする。賞味期限なんて、あって無きがごとし、少々遅れても大丈夫である。

しかし、大手饅頭は餡を煮つめてあるから、腐ると云う事はないと子供の時に聞いている。食って見ると、腐ってはいないが、口ざわりがよくない。失望したけれども、そう云う顔はしないで、家の者には岡山の名物を食えと云ってやったら、迷惑そうな顔をして、一つ二つ食った。
二三日すると、食い残しの大手饅頭に毛が生えたと云って、台所で騒ぎ出した。
「毛が生えても大丈夫である。布巾でその毛を拭き取って、御飯蒸しに入れて、蒸しなおしてくれ」と私が云った。
心配だから台所に顔をのぞけて、それとなく、におって見ると、ぷうぷう吹き出している湯気が少し黴臭かった。
(同上、113頁)


先日所用があって岡山へ行って来た。用事を済ませた夕刻から、知り合いと酒になった。普通の住宅街の中にある気の置けない居酒屋N屋である。瀬戸内の小魚や貝類なども美味いが、どんぶり鉢にたっぷりの出汁に花かつおと豆腐を入れ込んだ「湯豆腐」が特に美味い。そして安い。庶民の味である。おひらきの後、駅ビルの売店で大手饅頭を買い込み、新幹線に乗る。

百關謳カは酒飲みのくせに大手饅頭のような甘いものも食べる。といって甘党というわけでもない。大手饅頭は、わけあって(あったらしい)出京以来ずっと郷里岡山へは帰ることが無かった先生にとって、特別の故郷の味だったのだろう。魚島鮨とお祭鮨(いずれも五目寿司で前者が春、後者が秋)などもそうである。春秋の季節になるとわざわざこさえて、琴を通して昵懇の間柄だった箏曲の大家宮城道雄検校邸に届けた。寿司飯に混ぜる具材はかんぴょう、しいたけ、高野豆腐など通常の品に加えて旬の山海の珍味、筍、松茸、海老、烏賊、鯛、平目、白魚などで20種類以上になったという。生家が没落する前の幼少期に馴染んだ味を偲んでのことだったのだろう。舌は昔の味をしっかり覚えていたのだ。
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2017年10月01日

[vol.8]月光

その絵はそれほど大きくない。縦60cm.横40cm.くらいの長方形をしている。油彩ではない。パステルでデッサンした上に水彩で色づけされている。単調なくすんだ黄土色一色である。

描かれているのは佇立する一人の兵士である。長靴を履き頭からすっぽり風防コートを着て腰を締めている。わずかに覗く横顔はまだ若い。階級はわからない。下士官だろうか、見習士官だろうか。そしていま彼は歩哨として陣営の見張りに立っているのか。彼の身の他は背景も左右も一切描かれていないから、わからない。

絵の題は「月光」である。そういえば夜間淡い月の光を浴びて佇立する見張り兵とみえないこともない。目深にかぶったフードに隠されたその顔は、緊張と諦念と、また安らぎとにおおわれている。

この人物は、もっと多くの人物が登場する――おそらくは戦争画――の構成部分の一つで、その習作として描かれたものであったように思われる。ただこれを含む一枚の絵全体は描かれずに終わった。いや、描かれたとしても残っていない。

作者が一枚の戦争画をどのような意図でもって描こうとしたか、必ずしも明確ではないが、いま残されているその一部分の絵の中の彼は、自分はいま愛する者を護ろうとして銃を取ったのだとだけ思おうとしている、無表情を装いつつただそれだけを思おうとしている、淡い月の光の中で――そのように思われる。
 
小磯良平美術館は六甲ライナーで六甲島に渡った最初の駅のすぐ近くにある。小規模だがモダンな建物で、中庭にはかつて使っていたアトリエが移築され、公開されている。明治末から昭和の初期にかけて港町神戸には西欧の近代文明を取り入れたモダニズム文化が花咲き、多くの音楽家、画家、文人が集い、その粋を発信した。小磯良平はその一人である。他に詩人竹中郁、音楽家近衛秀麿、山田耕作、貴志康一、諏訪根自子、レオ・シロタ、エマヌエル・メッテル、アレクサンデル・モギレフスキーら数多い。この人たちが集住したのが「深江文化村」。芦屋川西岸の河口から深江浜にかけての一帯である。戦災と震災のために、いまはもう見る影もないが、いずれその探訪記をお目に掛けたいと思っている。

小磯はいかにも東京美術学校出身者らしい適確なデッサンに基礎を置く端正な筆致の、そして暖かい色彩に溢れた絵を描いた。その対象は身辺の人たちの肖像、その人たちが住みなす住居の室内と静物、周辺の風景などである。私小説風の小世界といってもよい。それがハイカラなのは、モダニズムの画家がその目に捉えたモダン都市神戸の景観だからである。

そこには家族愛、友人愛、人間愛が横溢している。悲しみはない。あってもあたたかい色調に取り込められている。怒りはない。恨みもない。妬みもない。それに相応するかのような2年間のフランス留学、戦後の東京芸大教授職、文化勲章受勲と続く順風満帆の人生行路。

でありながら、「月光」の若い兵士には、そうした恵まれた彼にも捉え得た人生の厳しい側面――といって語弊があるなら、人間誰もが人生のある一点で持つ生真面目な表情、覚悟といったものが表示されているように思われる。若者が、周囲の愛情を一身に受ける身でありながら、神の気まぐれによって決死の場に乗り出す、乗り出さずにはおれぬ場で見せる覚悟である。それが眼元のあたりに見て取れる。

六甲ライナーで魚崎まで帰り、阪神電車に乗り換えて芦屋へ。駅のすぐ近くのイタリアレストランGに坐る。ここは瀬戸内の魚介類をうまくイタリア風に調理してくれる店であるが、今日はムール貝やウニ、生ハムなどを使った前菜をシチリア産の白ワインで楽しんだのち、ナスとムール貝のパスタ、アサリのリゾットで仕上げする。いずれも美味。

上り線の駅東口を出て線路沿いに東へ坂を降りた左側。訪ねてみられよ。
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