彼は信州だけではなく大和へも旅をした。
最初、僕たちはその何んの構えもない小さな門を寺の門だとは気づかずに危く其処を通りこしそうになった。その途端、その門の奥のほうの、一本の花ざかりの緋桃の木のうえに、突然なんだかはっとするようなもの、――ふいとそのあたりを翔け去ったこの世ならぬ美しい色をした鳥の翼のようなものが、自分の目にはいって、おやと思って、そこに足を止めた。それが浄瑠璃寺の塔の錆びついた九輪だったのである。(堀辰雄『大和路・信濃路――浄瑠璃寺の春』)
安保闘争に明け暮れた年の秋、二、三の友人と語らって京都から奈良へ寺を訪ねて歩いた。京都や奈良の寺巡りは大学生として当然踏みゆく巡礼の旅、そういう暗黙のしきたりのようなものがあった。亀井勝一郎の『大和古寺風物誌』などの影響があったかもしれない。
自然を超えんとして人間の意志したすべてのものが、長い歳月の間にはほとんど廃亡に帰して、いまはそのわずかに残っているものも、そのもとの自然のうちに、そのものの一部に過ぎないかのように、融け込んでしまうようになる。そうして其処にその二つのものが一つになって――いわば、第二の自然が発生する。そういうところにすべての廃墟の云いしれぬ魅力があるのではないか?[……]
僕はそんな考えに耽りながら歩き歩き、ひとりだけ先きに石段をあがり、小さな三重塔の下にたどりついて、そこの松林のなかから蓮池をへだてて、さっきの阿弥陀堂のほうをぼんやりと見かえしていた。(同上)
最近奈良が近くなった。阪神電車が西九条から難波まで延伸して近鉄と相互乗り入れをし、三宮・奈良間に快速急行が走り出した。神戸から小一時間もあれば奈良の町へ行ける、乗り換えなしに。
寺や仏像が近い。しかし、それまでは目で見るにしても一度か二度、たいていは文字で読み、写真で見ただけで自分の心中にイメージを膨らませていた大和の寺院の、また仏像の姿形が、望めばいつでも実物を見ることが出来るようになったのは、はたして良いことなのだろうか。
筆者にとっての浄瑠璃寺は、そのイメージは、十八歳の秋のそれである。あのとき境内にはわたしたちの他には誰もいなかった。わたしたちは阿弥陀堂の前から池を隔てて三重の塔をじっと見ていた。堀辰雄もそうしたに違いないと思いながら。それから奈良の街へ降りて行ったのだった。
奈良町の狭い通りの両側には、若者向けのカフェや食事処、ちょっとした装飾品を商う店などが並んでいる。それらを冷やかしながら東の端の清酒「春鹿」醸造所まで行く。酒の他に猪口や徳利など小ぶりの土産物も商っているし、幾ばくかの代金で「春鹿」の辛口を飲むこともできる。そういう場がしつらえられていて、若い女性や外国からの客などで静かに賑わっている。こちらもそれを戴く。少々酔いをおぼえても大丈夫だ、近鉄奈良駅まで歩けば、あとは心地よい揺れに暫時身を任すだけだから。
風たちぬ/美しき村の/夏木立
いかん、悪酔いしたか。