2017年06月22日

[vol.2]コルマールからリヨンへ

コルマールのウンターリンデン美術館でグリューネヴァルトの「イーゼンハイムの祭壇画」を見たあと、リヨンへ向かう。絵は期待していたほどの迫力は感じられない。
見たい見たいという思い込みが強すぎたのか。かつて疫病に悩んだ人々のこの絵に籠めた祈りと願いが、平和に慣れたわれらにはもはや届かないのか。

美術館脇のレストランでエスカルゴを白ワインで味わう。美味。南フランスでは休日になると家族総出でエスカルゴを取るために田園に出かけるものだと、昔聞いたことがある。1週間ほど泥を吐かせてから食用にするのだと。それはともかく南ドイツ風の木組みの家並みを眺めながら、一路リヨンへ。

昭和20年3月の東京大空襲のあと、永井壮吉は帝都を捨てて西に逃れ、兵庫の明石を経て備前岡山の地にたどり着いた。市内を南北に貫いて旭川という川が流れている。それに架かる京橋の欄干に倚り川面を眺めているうちに、遥か昔、おなじく橋上から川面を眺めた異郷の地を思い出す。

まず電車にて京橋に至る、欄に倚りて眺るに右岸には数丁にわたりて石段あり、帆船自動船輻湊す、瀬戸内の諸港に通う汽船の桟橋あり、往年見たりし仏國ソーン河畔の光景を想い起さしむ。
(『断腸亭日乗』)


ソーヌ(=ソーン)川はフランス中東部の町リヨンを流れる川である。リヨンは東西をローヌ川とソーヌ川とに挟まれた細長い土地にできた町である。両川は町の南で合流する。

ここに戦前、といっても明治の頃、横浜正金銀行の支店があり、永井壮吉すなわち後の荷風散人がこれに勤めていた。ただしごく短期間である。1907年(明治40年)夏、アメリカから渡って来て支店職員となるも、翌1908年3月には辞職し、そのままロンドン経由で帰国している。20歳代後半のその目に捉えられたリヨンの街、そしてソーヌ川のたたずまいが、38年を経たのち戦火に怯える東洋の小都市で想起される。ただソーヌ川の水は深緑色、両岸の木立も新緑の季節といえどその緑は濃く、5月の陽光の下にあってもその明るさは瀬戸内の町岡山の地中海風の抜けるように透明な明るさとはいささか異なる。荷風の目を捉えたのは川船の数とそのたたずまいだったろうか。

荷風の時よりも6年後、その京橋の袂から教師に引率された小学生の一団が蒸気船に乗って川を下り、瀬戸内の島まで海水浴に出かけた。そしてまた荷風の時より110年後、海水浴に出かけたかつての少年は、ソーヌ河岸に至れども川を船で下ることはせず、川を西へ渡って丘の上の古代ローマ劇場跡を訪ねた。

リヨン市役所前から大通りを南下するとベルクール広場へ行き着く。この広場の西南の端にあの『星の王子さま』のサン=テグジュペリ像が建っている。すぐ近くに生家もある。そのまたすぐ近くに「昭和の文豪」と巷間その名も高い作家遠藤周作氏のリヨン大学留学時の下宿がある。彼の母校(旧制私立灘中学)の地元の人間として不埒極まることかもしれないが、その傑作を一作たりとも読んだことがないわが身は、リヨンの旧居もただ遠くより遥拝するだけにとどめておく。

昼も夜も食事はワインに始まりワインに終わる。まさにワイン三昧である。ただアテとなる肴、すなわち料理はけっして旨くはない。市役所前から大通りを少し南下したところにあるレストラン『ル・ノール(北方亭)』で魚料理らしき料理は食べたが、どうもいま一つ。せめて南ドイツでは常食の焼いた川鱒でもあれば……と、甲斐なき思いを呟くばかり。ヨーロッパの食事はアルプス以南に行かぬとどうしようもない、と実感する。
posted by 出町 柳 at 15:33| Comment(0) | 読む・歩く・飲む