羽田から飛行機でパリ、パリからランス、ランスからストラスブール、コルマール、リヨンまでバスで走る一週間。
アルプス以北のヨーロッパでは、五月は春たけなわ。並木道のマロニエが白と赤の花を付け、桐は薄紫に咲き誇り、葡萄畑の葡萄は黄緑色の葉と蔓を延ばしている。好天に恵まれ、行程の最後に戻って来たパリでは、なんと気温は二十八度を記録していた。
このあたりは古代ローマ時代から開けたところで、ストラスブールは古名をアルゲントラートゥスといい、四世紀半ばには司教座教会が置かれるほどの由緒ある町だった。いや、それは知らんという人も、ここが独仏の領土争いの地であったこと、シュトラースブルクというドイツ風の名で呼ばれることもたびたびあったことは、よく知るところではなかろうか。ここを舞台にしたアルフォンス・ドーデーの『最後の授業』という掌篇小説のことも。
この小説が描くのはストラスブール近郊の一小学生フランツの眼を通して捉えられたフランス語の最後の授業の様子である。なぜ最後か。普仏戦争(一八七〇〜七一年)に敗れたフランスはアルザス・ロレーヌ地方をプロシア(ドイツ)に割譲した。その結果、「アルザスの学校では明日からフランス語に代えてドイツ語を学ぶべし」との通達がベルリンからもたらされたのだ。言語と民族という重い主題が、小学生の眼を通して展開される。
私がこんなことにびっくりしている間に、アメル先生は教壇に上り、私を迎えたと同じ優しい重味のある声で、私たちに話した。
『みなさん、私が授業をするのはこれが最後(おしまい)です。アルザスとロレーヌの学校では、ドイツ語しか教えてはいけないという命令が、ベルリンから来ました…… 新しい先生が明日見えます。今日はフランス語の最後のおけいこです、どうかよく注意してください。』
この言葉は私の気を転倒させた。ああ、ひどい人たちだ。役場に掲示してあったのはこれだったのだ。
フランス語の最後の授業………(桜田 佐訳『月曜物語』所収、岩波文庫)
支配者が変わるたびに異なる言語が要求された。普仏戦争直後にこの地に生まれたシュヴァイツアー博士は、もちろんフランス語もよくできたが、「わたしの母語はドイツ語だ」と言っている。そしてアフリカのランバレネの診療所から帰国(たいていは運転資金用のオルガン演奏会のため)するたびに、この地の使用言語は独仏のいずれかに変わっていた、とも言っている。
第二次世界大戦後、ヒトラーの軍団が引き揚げて行ったあとは、もう長らくこの地はフランス領である。郊外には、フランツ少年やアメル先生の時代と同様に、葡萄畑が広がり、良質なワインが造られ飲まれている。一本百万円と噂されるロマネ・コンティを生み出す葡萄園と醸造所も近い。百万円の一本は、残念ながら聞くだけにとどめ、当方は近所の小ぶりのレストランでごく普通の白ワインを白アスパラと生ハムを肴にいただく。
付け加えておこう。じつはゲーテもシュトラースブルク(ストラスブール)大学で短期間学生生活を送った(市内にはゲーテが住んでいた家屋がいまなお残っている)。その時に出会った十八歳の乙女フリーデリーケ・ブリオンとの恋を歌ったのが絶唱『五月の歌』。彼女の生家であるゼーゼンハイムの牧師館もいまなお変わらずに残っている。
自然はうつくしく/われに燃え/太陽はかがやき/野辺はわらう
小枝に咲きみつる/花々/しげみを洩るる/鳥のこえ
わが胸にわく/よろこび/おお大地よ太陽よ/おお幸福よ愉悦よ
恋よ恋よ/片岡の/朝雲の/あかねさすうるわしさ
よみがえる/野面に/立ちこめし/むらさきの靄のいろ
少女よ少女よ/ひとえにわれは愛す/黒き汝が眸を/汝もまたわれを愛するかな
揚げ雲雀の/歌と空を/朝ごとの花の/微風を
愛するがごとく/われはあたたかき血もて/汝を愛す/われに青春と歓喜と
あたらしき歌と/舞踏をおくるもの/とこしえに汝は幸いなれかし/ひたすらに
われを愛しつつ(大山定一訳)
四十年ほど前、当時住んでいた南ドイツの小さな大学町から、シュヴァルツヴァルトの森とライン河を越えてストラスブールまで旅をしたことがある。そのときこのゼーゼンハイムの牧師館で当代の牧師からゲーテの恋物語を聞かされた、「ゲーテはここ(中庭を隔てた納屋)からあそこ(建物の裏口)を出入りするフリーデリーケを盗み見ていたんですよ」と。今日とおなじく明るい光に満ち溢れた五月のことだった。