2021年04月01日

[vol.65]月報集成

面白い本が出た。
文学全集の月報と文庫本の解説とを寄せ集めてこしらえ上げた500ページになんなんとする大冊である。題して「百鬼園先生―内田百闡S集月報集成」(佐藤聖編、中央公論新社、2021年1月)という。

何巻にも及ぶ大部の文学全集はおおむね月に一冊のペースで刊行されるが、各巻にはその都度月報がつく。月報に載るのは知人、友人はじめ作者ゆかりの人々から寄せられた寄稿文である。こぼれ話、裏話の類ばかりではない。書誌学的にみて貴重な資料となりそうなものも時にはないわけでもない。

本書はそれらを集めて一本にしたものだ。帯に、「総勢87人が語る『私の内田百閨x」とある。

そも月報とは何か?作品本体からすればそれに帰属し寄生する付録のような存在だろうが、そこにそれなりの独立性がないわけではない。それだけ取り上げて読んでも面白い。月報が面白いのは、本体が問題含みで面白いからでもある。本体の面白さに魅かれて月報もまた面白くなる。

じっさい百閧ェ書くものは面白い。それに魅かれて読んでいるうちにだんだん入れ込んでいってしまう。もし我に月報の注文が舞い込めば一筆書いて進ぜよう、などという気にさせられてしまう。いや、少なくとも月報執筆者があたかも仲間のように思われてくる。そして月報が誘い水となって、書架から本体を取り出して再読することになり、そのままそこへのめりこんで時を忘れる。

ひょっとしてこの月報集成の企画者は、そうした百闢ヌ者に共通の微妙な心理状態を見透かしていたのではあるまいか?いや、百閧セけに限らない。誰であれ特定の作家を愛読する者は、作品の隅から隅まで読み尽くす愛読者は、月報を機にもう一度至福の時に戻っていくということが、けっこうあるのではないか?とりあえずは百閧愛読する諸氏よ、ぜひとも本書を繙いてみられよ。

ところでさて、まことに下世話な話で恐縮なのだが、この本の印税はどこにいくのだろうか?87人の執筆者が各自それを要求して、要求通りに割り当てられるのだろうか?いや、月報も煎じ詰めれば百閧ニいう大看板かつその大文章あってのことだから、87人全員が借金大王なる百關謳カにすべて上納することになるのだろうか?「王のものは王に返すべし」とどこかの古賢がのたまもうていたような気がする。

出版不況のこのご時世、月報集とは本づくりの妙手だが、好評増刷の後始末をさてどうするか、他人事ながらいささか気にはなる。
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2020年05月01日

[vol.64]寝付く前に

新型コロナウイルスによる悪疫がなかなか止まない。日がたつにつれますます盛んになるようだ。おかげで事業所や工場、商店などの業務がストップする。学校も休みになる。大学生も構内から締め出される。誰も家から出るな、家に居ろとお達しが出ている。

すでに職を退いた身は悪疫流行とは関係なく毎日が日曜日状態なのだが、世間の人々が――全部ではもちろん無いが――休息中となった今、おかげで当方もふだん通り朝からダラダラしていても有難いことに後ろめたい気分にならなくて済む。
 
小心な人間はなまじ暇を与えられると、それをいかに有意義に過ごすか、過ごしているように見せかけるか、腐心する。他人の目が気になるのだよ。まず時間にルーズになる。勤め先に定刻に着く必要がなくなるから、起床が遅くなる。遅く起きて新聞を隅から隅まで読む。
以下諸事万端、順次遅れてゆき、とうとう就寝時間まで遅くなる。翌日にさしたる用事が無い身だから安心して夜更かしをするのである。そして、いざ寝ようとすると目が冴えて寝付けない。それでも昔のように切羽詰まって睡眠剤に頼ることは、もうしない。寝酒をやる。それでうまく寝付ければよいが、そうでないと困ったことに酒量ばかりが増える。
 
そこで就寝用の読書をする。ひところ凝ったのはアガサ・クリスティーで、ポワロとマープルおばさんとに馴染みになるほど読んだ。
 
ポワロが乗り出すのは地方の館で起きる殺人事件。上流階級の家中の財産争い、今に残る階級制、主人とその一族のほかに執事、召使い、下男、庭師。古代ギリシアのヘラクレスはその圧倒的な腕力で人間界を征圧したが、ベルギー生まれの現代のそれは灰色の脳細胞を駆使して難事件を解決に導く。ブラウン管上のD・スーシエ扮するポワロはほんの2時間足らずでそれをやってのけるが、わが寝床まで出張してくれるヘラクレスは犯人捜しに加えてイギリスの田舎の館を中心とする人間模様を興味深く報告してくれるのだ。
 
あらかた読み漁ったクリスティに代わって最近就寝の友となってくれているのは、池波正太郎だ。その『剣客商売』を、これもあらかた読んだ(新潮文庫で全16巻)。芝居の脚本書きからスタートした池波独特のスピーディな場面転換。善玉と悪玉のわかりやすい人物設定。必ず書き込まれる庶民料理の献立。そして話の最後に触れられる老剣客秋山小兵衛の迫真の剣さばき。これはポワロが一篇の最後になって灰色の脳細胞の稼働の成果を披歴するのと同じく、荒れ乱れる世情を鎮めつつ一夜の安らかな眠りを約束してくれる睡眠薬に他ならない。小兵衛は「ゆっくり眠りなされ」とは言うが、そこに珍妙な人生訓の類を差しはさむようなことはしない。だから眠れる。ブラウン管上は藤田まこと。見事に老いた元喜劇俳優。好演。
 
次の候補には藤澤周平が上がっている。その作品には余情というか、人生のため息のようなものがたゆとうているようで、要注意。悪人を切るのだ、人生訓は無用、いっしょに束ねて一刀両断するに限る。
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2020年04月15日

[vol.63]花咲くアーモンドの木

ギッシングは『ヘンリ・ライクロフトの私記』のある章で「私は植物学者ではない」と書き出しながら、しかし散歩の途次に出会ったいろいろな植物の上に輝く春の色を嘆賞している。なるほどその観察は学者のそれではない。が、そこには植物好きな文人の季節の自然を楽しむ心の様子が存分に見て取れる。

拙宅の庭にひともとのアーモンドの木がある。これが早春に花をつけた。裸か木全体が真っ白の花におおわれる。花芯は赤いから離れたところから見ると純白の花むしろにすこしピンクのいろどりが混じることになる。一週間か十日の間、満開の花が目を楽しませてくれた後、散り始める。樹下に花弁が散り敷き、代わって樹上には薄緑の若葉が生まれ出て、見る間に天上へ向かって伸びていく。

ゴッホも南仏のアルルでこの花を描いた。明るい南フランスの青空を背景に群がり咲くアーモンドの白い花。アーモンドだけではない、果樹園の花をつけたアンズやスモモも描いている。100年ちょっと前の、ちょうど今頃である。

 春を告げるのは花ばかりではない。鳥もそうだと、古の詩人は言う、
 香も甘き春の訪れを告げる/おなじみの使者/濃紺(あお)い背広の燕(つばくろ)よ(シモニデス)、と。

われわれの感覚では燕の飛来は初夏である。地中海域では温暖の度合いが違うのだろうか。

わが庭でアーモンドより一足早く咲き終えたのはサクランボである。丈1メートルほどの灌木ながら枝一面に薄紅色の花をつけた。花のあと今びっしりと小さな緑色の実がついている。いずれはこれが熟してサクランボの実となるのだろう。しかし例年こちらがそれを口に含むより前に、大小の鳥たちがやって来て啄んでしまう。鳥が来るのは歓迎すべきことだが、丸坊主にされてしまうのはいささか困りものだ……という気がする。

サクランボの隣にはオリーヴがある。これがまた毎年背丈を伸ばす。パレットの上に絞り出した緑色の絵の具に白色の絵の具を混ぜてつくった色合いの、槍の穂先のような精悍な葉が天に向かって突き上がる。木は1本しかないから実はつかない。いずれ初夏の風が吹くころには灰緑色の葉裏を見せるだろう。

サクランボの花も、アーモンドの花も、また来年の開花が待たれる。毎年楽しみにしている近所の家の桜――その枝が垣根を越えて歩道に張り出している――もそろそろ満開になるはずだ。昨今の悪疫流行で陋屋に蟄居している身だが、これだけは見ておきたい。くだんのギッシングは「春は長いこと忘れていた青春の力をほのぼのと蘇らせてくれた」と書いている。ああ、そのとおりだ、たとえ「花と咲く青春を取り戻すのは至難の業」(バッキュリデス)であるとしても。
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