2018年02月15日

[vol.17]和歌浦

漱石に『行人』という作品がある。大正元年12月から、病魔に襲われて一時中断しつつ、翌2年11月まで朝日新聞紙上に連載された。
作品は、全篇を通じて語り手となる「自分」が大阪・梅田の停車場で汽車を降りるところから始まる。以後、旧知の岡田に会ったり、友人三澤が病臥している病院を見舞ったりして、しばらく大阪の街の情景描写が続く。そのあと、退院して帰京する三澤と入れ替わるように母と兄一郎夫婦が西下して来、それに「自分」も同道して、物語の場は一挙に和歌山まで広がることになる。
これぞ新聞小説としては恰好の舞台設定かと思われたのも束の間、神経を病む兄一郎の奇妙な提案を受け入れた「自分」二郎は、台風の夜、和歌山市内の旅館に兄嫁直と一泊せざるを得ぬ状態になる。つまり話は兄一郎の神経衰弱の病状の描写報告に成り代わり、それが帰京後も続き、最後は兄の友人Hによる詳細な兄の病状報告というかたちになる。
一郎の神経衰弱は何に起因するのか。単に病理的なものなのか。何か社会的要因があるのか。権現様の境内で一郎は己の苦しみ(その一部)を二郎に吐露する、「直は御前に惚れているんぢやないか」と。続けて「ただ聞きたいのは、もっと奥の奥の底にある御前の感じだ。その本當の所を何うぞ聞かして呉れ」と言い、さらに次の日には紀三井寺の境内で、二郎と直の二人で和歌山市内へ出掛け、直の節操を試してくれと提案する。事は不倫という生臭い人間関係に発展しそうな具合になって来る。
しかし一郎と二郎、直の三人の関係が一郎の神経病みの単なる始まりすなわち病根ではなく、またその病のすべてでもない。それらを含みこんだもっと広範なものと暗示されるが、しかしそこには社会生活上に想定される何らかの外的要因は認められない。のちに提出されるHの報告では、一郎の苦悩はきわめて鋭敏な人間にのみ生じる特殊なものであるとしか解釈されない。そこでは社会的要因は、故意にか偶然にか、言及されていない。一郎は、いわば隔離病棟の患者であって、読者は遠くから「お見舞い」を申し上げることぐらいしか、対処の仕方がない。苦しいと言われたとて、どうにもしようがないのである。一郎の苦悩に共鳴し、その原因撲滅のために、一緒に戦おうという気持ちはとうてい起こり得ないのだ。二郎も困るし、われわれも困る。

漱石は明治44年の夏に関西へ講演旅行を行い、和歌山へも足を延ばし、おまけに台風に吹き籠められて宿泊していた和歌浦まで帰れなかったという経験をしている。この体験が『行人』で生かされた(らしい)ことは明らかだろう。
作中で一郎ら一行が和歌山の停留所(現南海電鉄和歌山市駅)から和歌浦まで乗って行った市内電車は、いまはもう無い。作中で一郎らが泊まった「望海楼」も無い。裏山の東洋一のエレヴェーターも無い。玉津島神社はある。一郎二郎兄弟が密談した場所、権現様(東照宮)もある。紀三井寺ももちろん健在だ。

その昔(といっても漱石の時代ではない。ほんの40年ほど前のことだ〉権現様の石段下にあった看護学校へ、週1回ドイツ語を教えに通ったことがある。授業後に玉津島神社のあたりまで歩き、その南の料亭「藤村」の喫茶部でコーヒーやビールを飲んだ。同行者は戦前の関学ボーイでシャンソンに造詣が深かったW先生(専門は心理学)。料亭の若女将(といってもまだ女子高校生)を前に、ほろ酔いの功徳で「ジャタンドレ」を口ずさんでみせてくれたりした。
夜の「藤村」は医学部本科の神経内科のたまり場とかで、教養部の講師風情にはとんと無縁だった。この店、いまも割烹「ふじ村」として健在である。むかしの女子高校生が立派な女将になっているはずだが、確かめたことはない。
posted by 出町 柳 at 10:00| Comment(0) | 読む・歩く・飲む

2018年02月01日

[vol.16]旅宿の花

平薩摩守忠度は平家一門の武将、しかも本流も本流、清盛の弟に当たる。とはいえ生まれは紀州熊野川の流域の音川とされるから、単に柔和な都の貴族であったわけではない。富士川の戦い、倶利伽羅峠の戦いなど、源家との戦には幾度となく出陣し武名を挙げている。一方で、しかし彼は和歌の道に秀でた文化人でもあった。京の都で藤原俊成に師事して歌の道に励み、後世にその名を遺した。

栄枯盛衰は世の習い。驕る平家も久しからず。栄華を極めた一門も西の方壇ノ浦まで落ちてゆく。清盛亡き後平家一門の棟梁となった宗盛は幼い安徳帝を擁して都を捨て、西国へ落ちてゆく。
忠度も落ちてゆく。「淀の河尻」辺りまで行きしのち、侍五騎、童一騎、己を入れて計七騎、京の五条の藤原俊成邸へ取って返し、出迎えた俊成師に「秀歌とおぼしきを百首あつめられたる巻物」を託し、いずれ編纂される筈の勅撰和歌集への収録を依願する。
今は西海の浪の底にしづまば沈め、山野にかばねをさらさばさらせ。浮世に思ひをく事候はず。さらばいとま申て
(『平家物語(下)』忠教(度)都落、新日本古典文学大系、岩波書店)

馬上の人となった忠度は「前途程遠し、思を雁山の夕の雲に馳」と高らかに口ずさみつつ去る。

源平の争いが終わり世の中が静まったのち、勅撰和歌集『千載集』が編纂されたが、撰者俊成は忠度から託された巻物から一首を撰び、収録した。
さざなみや志賀の都はあれにしをむかしながらの山ざくらかな

しかし忠度は朝敵となった平氏一門、勅勘の身であるということで、その名は記されず、「読み人知らず」とされている。

昨年の年末、さる謡曲同好会の諸氏の喉を拝聴する機会があった。いずれも素人だが、長い人で10年以上のキャリアがある。そのなかに『忠度』を謡った人がいた(あとは『野宮』と『羽衣』)。
摂津の国、須磨の浦の桜の花の下、一ノ谷の合戦で討ち死にした忠度が旅の僧の夢枕に霊となって現われ、先に俊成によって「読み人知らず」とされたわが歌に作者名を付けてくれるようにと、俊成の子の定家への伝言を頼む。さらに坂東武者岡部六弥太忠澄との死闘および箙に結わえつけた歌一首によって身の上が明らかになったことなどを語って花の陰に消える(『謡曲百番』「忠度」、新日本古典文学大系、岩波書店)。
箙の歌は以下の通り。
行暮れて木の下陰を宿とせば花や今宵の主ならまし

武人という浮世の生業は一門の盛衰に翻弄されてはかなく消える。せめて歌人として末代にまでわが名を、わが生の証を残したいという、まさに執念のような強い思いが伝わってくる。
坂東武士岡部忠澄は平家の御大将を討ち取ったりと得意満面だったが、のちに己が在所深谷の清心寺に忠度の供養塔を建てた。心ある業である。
忠度と忠澄が組み討ちをした際、上になった忠度を忠澄の郎党が背後から襲い掛かり、忠度の右腕を切り落とした。それがため死を覚悟した忠度は西方へ向かい暫し念仏を唱えた後、忠澄によって首を刎ねられるにまかせた。その「腕塚」というのが神戸市長田区駒ケ林にある。地下鉄海岸線駒ケ林駅の近くである。
 
謡曲の会場から10分ほど歩いて鮨処「真砂」に上り、忘年と慰労の会を開く。それに参加して昼間から温かい鍋と清酒「白鶴」を戴く。
posted by 出町 柳 at 10:00| Comment(0) | 読む・歩く・飲む

2018年01月15日

[vol.15]木曜会

木曜会といえば漱石山房。わたしたちも、じつは木曜会を開いている。ただし元祖とはかなり違う。小宮豊隆、鈴木三重吉、森田草平に始まって内田百閨A芥川龍之介、久米正雄ら錚々たる文人墨客、学徒らが毎週木曜日の午後3時に漱石山房に集り、師弟ともども談論に興じるというのが元祖のそれ。われわれのは会員わずか3人。毎週ではなく年に何回か木曜日に梅田のビルの一室に集まって、漱石の作品を題材にあれこれ喋々喃々するだけのもの。木曜日と漱石の作品が題材というだけの繋がりで木曜会を僭称しているだけに過ぎない。

もう3年になる。言い出しっぺはK先輩。魯迅の研究者で長年大学で中国文学を講じてきたが、一方、創作家でもあり、中央の大手出版社から既に2冊のエンタテインメント小説を刊行している。わたしたちの上の世代に多い漱石愛好家でもある。
いま一人はオーストリア中世、近代の作品研究を課題としつつ、これまた長年学究生活を送ってきた仁。
残る一人のわたしは、前者二人の驥尾に付して漱石学を学ぶ初心者。漱石を知らずして文学を喋々するわけにもゆくまいという思いから、参加させてもらっている。

漱石は英文学研究の途を捨てて朝日新聞社に入社し、作家生活をスタートさせた。以後新聞紙上を借りて広く江湖に意を問うこととなる。明治人の常で、漱石も日本社会の急速な近代化、西欧化の中でその精神的基盤をどこに置くか、普請中、いや改造中のわが家屋のどこを己が私室とするか、苦慮したはずである。

たとえば漱石の作品に頻出する「高等遊民」という存在などはその「苦慮」のあり方の一つであり、いまなお読む者の興味を引くものながら、しかし実体として読者に迫ってくる迫力は乏しいのではないか、と言わざるを得ない。それは当時と現代との時代の差だけによるものではなく、その描かれ方自体がきわめて曖昧で実態を伴なうものになっていないからである。彼らは霞を食って生きているとしか思えないほど、どう読んでもその経済的基盤が薄く乏しく思われる。つまり彼らは実体のある市民として生きていないのである。そのことが各作品を(健全な)市民小説として成立させることに失敗している。せっかく新聞小説という場、広い読者層(市民)を与えられながら、それを生かすことを怠っている――そうみえる。
『彼岸過迄』(明治45年)の松本、須永にしろ、『こころ』(大正3年)の先生にしろ、そうである。市民小説として成立しそうな塩梅になるのは、やっと『明暗』(大正5年)になってからである。各登場人物が一個の人間として動き始める。

住処を普請したり改造したりすればいったいどれほどの銭が要るのか、つまり急速な近代化の中で市民小説を構築するにはどれほどの(精神的)銭が要るのか、それをきちんと認識すれば、巷へ稼ぎに出掛けるのは避けられないこと自明である。それを書く。あれこれ悩むのは帰宅後でよい。それが健全な市民生活というものであり、そうしてあれば日夜神経衰弱に悩まされることもなくなる。そういう日常を活写すれば市民小説誕生となる。

こういう駄弁を具申して魯迅研究家にして作家のK氏を呆れさせ、「帰る」というのを見送り、残った二人は梅田の駅前第一ビル地階の一杯飲み屋でビールで喉を湿らせる、これがわが木曜会の毎回のパターンである。
posted by 出町 柳 at 10:00| Comment(0) | 読む・歩く・飲む