2020年05月01日

[vol.64]寝付く前に

新型コロナウイルスによる悪疫がなかなか止まない。日がたつにつれますます盛んになるようだ。おかげで事業所や工場、商店などの業務がストップする。学校も休みになる。大学生も構内から締め出される。誰も家から出るな、家に居ろとお達しが出ている。

すでに職を退いた身は悪疫流行とは関係なく毎日が日曜日状態なのだが、世間の人々が――全部ではもちろん無いが――休息中となった今、おかげで当方もふだん通り朝からダラダラしていても有難いことに後ろめたい気分にならなくて済む。
 
小心な人間はなまじ暇を与えられると、それをいかに有意義に過ごすか、過ごしているように見せかけるか、腐心する。他人の目が気になるのだよ。まず時間にルーズになる。勤め先に定刻に着く必要がなくなるから、起床が遅くなる。遅く起きて新聞を隅から隅まで読む。
以下諸事万端、順次遅れてゆき、とうとう就寝時間まで遅くなる。翌日にさしたる用事が無い身だから安心して夜更かしをするのである。そして、いざ寝ようとすると目が冴えて寝付けない。それでも昔のように切羽詰まって睡眠剤に頼ることは、もうしない。寝酒をやる。それでうまく寝付ければよいが、そうでないと困ったことに酒量ばかりが増える。
 
そこで就寝用の読書をする。ひところ凝ったのはアガサ・クリスティーで、ポワロとマープルおばさんとに馴染みになるほど読んだ。
 
ポワロが乗り出すのは地方の館で起きる殺人事件。上流階級の家中の財産争い、今に残る階級制、主人とその一族のほかに執事、召使い、下男、庭師。古代ギリシアのヘラクレスはその圧倒的な腕力で人間界を征圧したが、ベルギー生まれの現代のそれは灰色の脳細胞を駆使して難事件を解決に導く。ブラウン管上のD・スーシエ扮するポワロはほんの2時間足らずでそれをやってのけるが、わが寝床まで出張してくれるヘラクレスは犯人捜しに加えてイギリスの田舎の館を中心とする人間模様を興味深く報告してくれるのだ。
 
あらかた読み漁ったクリスティに代わって最近就寝の友となってくれているのは、池波正太郎だ。その『剣客商売』を、これもあらかた読んだ(新潮文庫で全16巻)。芝居の脚本書きからスタートした池波独特のスピーディな場面転換。善玉と悪玉のわかりやすい人物設定。必ず書き込まれる庶民料理の献立。そして話の最後に触れられる老剣客秋山小兵衛の迫真の剣さばき。これはポワロが一篇の最後になって灰色の脳細胞の稼働の成果を披歴するのと同じく、荒れ乱れる世情を鎮めつつ一夜の安らかな眠りを約束してくれる睡眠薬に他ならない。小兵衛は「ゆっくり眠りなされ」とは言うが、そこに珍妙な人生訓の類を差しはさむようなことはしない。だから眠れる。ブラウン管上は藤田まこと。見事に老いた元喜劇俳優。好演。
 
次の候補には藤澤周平が上がっている。その作品には余情というか、人生のため息のようなものがたゆとうているようで、要注意。悪人を切るのだ、人生訓は無用、いっしょに束ねて一刀両断するに限る。
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2020年04月15日

[vol.63]花咲くアーモンドの木

ギッシングは『ヘンリ・ライクロフトの私記』のある章で「私は植物学者ではない」と書き出しながら、しかし散歩の途次に出会ったいろいろな植物の上に輝く春の色を嘆賞している。なるほどその観察は学者のそれではない。が、そこには植物好きな文人の季節の自然を楽しむ心の様子が存分に見て取れる。

拙宅の庭にひともとのアーモンドの木がある。これが早春に花をつけた。裸か木全体が真っ白の花におおわれる。花芯は赤いから離れたところから見ると純白の花むしろにすこしピンクのいろどりが混じることになる。一週間か十日の間、満開の花が目を楽しませてくれた後、散り始める。樹下に花弁が散り敷き、代わって樹上には薄緑の若葉が生まれ出て、見る間に天上へ向かって伸びていく。

ゴッホも南仏のアルルでこの花を描いた。明るい南フランスの青空を背景に群がり咲くアーモンドの白い花。アーモンドだけではない、果樹園の花をつけたアンズやスモモも描いている。100年ちょっと前の、ちょうど今頃である。

 春を告げるのは花ばかりではない。鳥もそうだと、古の詩人は言う、
 香も甘き春の訪れを告げる/おなじみの使者/濃紺(あお)い背広の燕(つばくろ)よ(シモニデス)、と。

われわれの感覚では燕の飛来は初夏である。地中海域では温暖の度合いが違うのだろうか。

わが庭でアーモンドより一足早く咲き終えたのはサクランボである。丈1メートルほどの灌木ながら枝一面に薄紅色の花をつけた。花のあと今びっしりと小さな緑色の実がついている。いずれはこれが熟してサクランボの実となるのだろう。しかし例年こちらがそれを口に含むより前に、大小の鳥たちがやって来て啄んでしまう。鳥が来るのは歓迎すべきことだが、丸坊主にされてしまうのはいささか困りものだ……という気がする。

サクランボの隣にはオリーヴがある。これがまた毎年背丈を伸ばす。パレットの上に絞り出した緑色の絵の具に白色の絵の具を混ぜてつくった色合いの、槍の穂先のような精悍な葉が天に向かって突き上がる。木は1本しかないから実はつかない。いずれ初夏の風が吹くころには灰緑色の葉裏を見せるだろう。

サクランボの花も、アーモンドの花も、また来年の開花が待たれる。毎年楽しみにしている近所の家の桜――その枝が垣根を越えて歩道に張り出している――もそろそろ満開になるはずだ。昨今の悪疫流行で陋屋に蟄居している身だが、これだけは見ておきたい。くだんのギッシングは「春は長いこと忘れていた青春の力をほのぼのと蘇らせてくれた」と書いている。ああ、そのとおりだ、たとえ「花と咲く青春を取り戻すのは至難の業」(バッキュリデス)であるとしても。
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2020年03月15日

[vol.62]観梅行

「しだれ梅を観に行こう」と誘われて名古屋まで行ってきた。深江から高速に乗り、京都南から新名神を走る。鈴鹿の山並みに先日降った雪が白く残っている。あっというまに右手には伊勢湾の青い海原。

まずは熱田神宮に参拝する。初めてだったが想像以上に深い森であることに驚く。御神籤は吉と出る。昼食を予定していた鰻の「蓬莱」は休店で、仕方なく中心街の「いば昇」へまわり、櫃マムシを堪能。

あと徳川美術館で大名雛を参観。細川家から輿入れした福姫持参の豪華絢爛たる雛の数々はまこと筆舌に尽くしがたく、御三家の威光ここに極まるとの感深くする。

正式な名称は何というのか、名古屋市の農業施設へ行く。それが今回の小旅行の主目的なのだが、そこの梅林でしだれ梅を観る。暖冬のせいかほぼ満開に近い。紅白交りあってたっぷりと植え込まれている。ただ香はない―−咲き初めのころは豊かに匂ったというが。

群生したしだれ梅を観たのは初めてである。女児の髪のように樹の天辺から幾筋も枝が垂れ下がり、それに花、蕾がいっぱいに付いている。一定の間隔を置いて植わっているのだが、枝は枝どうし、花は花どうし隣のそれと触れあって擦れんばかり。遠望すれば全花重なり合って、一面梅花のカーテンさながらである。帰途立ち寄った「なばなの里」の梅林も同様だった。

観梅行に誘ってくれたのは行きつけの寿司処「真砂」の大将と女将さんである。二人は月に一度の休みの日に車で遠出する。東は名古屋、下呂温泉、西は広島、萩、山口、南は四国、紀南、北は山陰、鳥取、福井永平寺と縦横無尽。これを日帰りで行ってくる。車好きの大将だ。

小生と愚妻はこれに時折誘われて、季節の景色と地元の食事を楽しむ。こちらはワゴン車の後部座席にゆったりと座り込んでカーステレオを聴きビールを飲みながら運ばれていくだけだから、これほど贅沢な小旅行はない。ありがたいことである。

昨今巷は悪疫流行で騒がしい。観梅行のころは世の中はまだ落ち着いていた――ようだった。それが一挙に騒がしくなった。関係している小劇団の3月公演(G.ハウプトマン『織工たち』、清流劇場)もとうとう中止に追い込まれた。シュレジエン方言に悩まされながら苦労して仕上げた脚本だっただけに残念ではある。他にも病原菌ウイルスに攻め立てられて人が集まる会合はほぼ延期か中止になった。

こうなれば厄払いだ。近日中に朋友相集い、たらふく飲みたらふく食って悪疫を退治し追い払おう。
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