2018年11月15日

[vol.35]裏寺町界隈

京都四条河原町交差点の西南の角に高島屋デパートがある。その北向かいの「ゑり善」の東横の路地を北へ入って行くと裏寺町。その界隈に「静」という居酒屋があった(いまでもあるらしい)。安酒を安く飲ます店で、貧乏学生の拠り所となっていた。「今日は四条で飲むぞ」と勇んで四条へ出ても、ここで始まり、たいていここで終わった。

ギリシア語の初等文法を上げたとき、担当教師M(哲学の助手。この人は山本修二が主宰するアイルランド劇研究会の有力会員だった)と履修生7、8人とが繰り込んで遅くまで飲んだ。演習授業でプラトンを読んだときは、担当の非常勤講師のこれまたMが、たった2人残った我ら履修生を連れて行ってくれた。京都で学生時代を過ごした先輩たちには若い頃からすでに馴染みの店だったらしく、卒業後も折に触れて利用するのは後輩たちへの引き継ぎを兼ねた、いわば伝統的行事であったらしい。戦後の闇市を潜り抜けてきた彼らは、闇焼酎を梅酒で割った「梅割り」やドブロクから飲むことを始めたという。そういう先輩と接していると、話しの端々に学科が少々不出来でも「あいつは酒が飲めるから」と点を甘くしてくれるところがあった。

品行方正にして学識豊かな方々が一方にいたことはもちろんである。そうした諸先生は何か一つ読み終わっても打ち上げと称する酒盛りをすることはなかった。いや、そうした碩学でも祇園から人力車で大学へ講義に通ったという九鬼周造がいたし、戦後でも毎夜祇園で飲んでいた大山定一なんて人もいた――そういう噂がある。学生と一緒に飲む飲まないは別にして、酒好きの教授はいたわけである。

森泰三という小説家をご存じだろうか。ある期の芥川賞の最終審査にまで残った人だが、残念ながら受賞を逸した。その期は受賞者はなく、森泰三はもう一人の清水某と同点二位だった。この森泰三が上に上げた二人目のMその人である。一方でプラトンを読み、一方で創作の筆を執っていた。この人には筆者は折に触れてお世話になった。信州戸隠のその山荘に押しかけて一夜飲み明かしたこともある。もう少し売れてからあちらに行ってもよかったのに、と今にして思う。

「静」のある裏寺町には、戦前「正宗ホール」という居酒屋があった。三高生だった織田作之助が書いている。
崩れ掛ったお寺の壁に凭れてほの暗い電灯の光に浮かぬ顔を照らして客待ちしている車夫がいたり、酔っぱらいが反吐を吐きながら電柱により掛っていたりする京極裏の小路を突き当って、「正宗ホール」へはいった。
そこも三高生の寮歌がガンガンと鳴り響いていた。
(織田作之助『青春の逆説』)

やがて鼻の大きな男が
「どうだ、この学生と一緒にガルテンへ行こうか」と顎の尖った男に言った。
「良かろう。面白い。可愛いからね」
そして豹一らの分まで無理に勘定を済ませると、
「どうです? 一緒に行きませんか」割に丁寧な物の言い方で言った。
「どこでも行きますよ。畜生!」赤井はやけになってそう叫び、黙ってむつかしい顔をしている豹一の傍へ寄ると、
「行こう。面白いじゃないか。ガルテンと言うのは祇園のことだ。園は独逸語でガルテンだろう?」耳の傍で囁いた。
(同上)

昭和の初め、世相はだんだんと険しくなっていくが、一方にまだこんな世界があった。いまではまずこんなことはないだろう。豹一や赤井はいるが、鼻の大きな男や顎の尖った男はいかに京都でももういないだろうから。
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2018年11月01日

[vol.34]ジャズと串カツ

過日「木曜会」があった。予定では『夢十夜』を取り上げることになっていたが、どうにも話が弾まず、前回の『明暗』をまた取り上げて俎上にのせることになった。

Mさんが紹介した正宗白鳥の『夏目漱石論』に言う、「少し箍が緩んでいるような感じがする作品である。運びがまどろしく退屈だ」との評言はまさに正鵠を射た卓見である、と思われる。

ただ次はどうだろう、「これまでの彼れの小説には、多くの女性は断片的に現されているか、あるいは型に入ったように現実味を欠いでいたが、お延とお秀と、吉川夫人とは、充分に現実の女らしい羽を拡げて羽叩きしている」。果たしてそうか?

お延もお秀も饒舌ではある。二人は夫と妻の関係性について論じているが、しかしそれは近代社会における女性の地位、あるいは職業の問題にまで達することはない。女性自立の問題は市民小説として成立する上で重要な要素となるものだが、それがまだじゅうぶんに展開されているとは言い難い。

K先輩も白鳥の『漱石論』のこの箇所にかくべつ異は唱えない。筆者は朝鮮帰りの小林がその存在を重くするはずの続篇に市民小説としての完成を期待したいのだが、漱石死してそれは永久に夢と化してしまった。たとえ書かれたとしても、弛み切った箍を締め直すのは難行だろう。真の意味での近代市民小説は、少なくとも漱石によっては書かれなかったことになる。

会のあと、いつもはMさんと梅田でジョッキ片手にさっきまでの議論の復習をするのだが、彼に所用があるとかで、早々に別れる。阪神で青木まで帰り、駅南の居酒屋「周山」に寄る。外出している愚妻と落ち合うことになっている。
とりあえずビール、そのあとは焼酎「もぐら」の水割り。京風のおばんざいよろしく目の前の大皿に盛られた肴の中から「鰻巻き」などを選ぶ。時節がら「松茸の土瓶蒸し」もいただく。松茸は、もちろん国産ではないから、香りが薄い。昨今は松茸に限らず、国産でも、茗荷も、いやキュウリ、トマトでも匂や味に独特のくせ、エグ味がなくなった。筍でもそうだ。せっかくの野の味と香りが弱まり失われているように感じられる。これは洗練ではない、弱化だろう。
追加して魚貝類の串揚げも注文する。

高い天井を打ち放しのコンクリの壁で支えている店内にはジャズが鳴っている。
串を揚げ終えた店主に訊くと、「好きなんです」という、一番は「ビル・エヴァンス」だと。「おたくは?」と訊かれ、最近たまたま聞いていたチェット・ベイカーだと、「ペットと歌のBut not for me がいいですね」と返す。

2時間ほど、愚妻ともどもたっぷり飲み食いしたのち、腰を上げる。
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2018年10月15日

[vol.33]酒は伏見の

内田百閧ュらいになると借金の話も名随筆の素になり盛名の礎となる。富家に生まれながら今は零落の身、というその変転がまた一種の薬味ともなっている。
貧乏人の小倅が貧窮の身を嘆いても、表向きは同情されこそ面白みはない。せいぜい唾棄されて終りである。とはじゅうぶん承知の上ながら、「貧」についてちょっと書いてみる。

学生時代、同級生は地方の公務員、教員、中小企業の勤め人、百姓の子供というのが多かった。皆、おおむね貧乏で僅かの仕送りと奨学金で遣り繰りし、足らぬところはアルバイトで凌いでいた。まずは家庭教師、少しまとまった金が欲しい場合は肉体労働。後者の場合は大学の学生課ではあまり扱われない。

百万遍にその種の斡旋所があった。友人の一人はそこの紹介で太秦の大映の撮影所へ出向いて稼いでいた。藤村志保、市川雷蔵(眠狂四郎)、上田吉二郎(黒沢の『羅生門』以後は各種映画の悪役で一世を風靡した)らとの交流(!?)を、あとになってだが、面白おかしく語ってくれた。

錬金術、その1。学生票を1,000円に代えること。
大学の学生課で学生票と引き換えに仮学生票を発行してもらい、それを第一勧銀百万遍支店の窓口に持参すると1,000円貸し出してくれるという粋な制度があった。
あるときそうして得た1,000円で叡電の定期券を買おうとしたら、窓口で本物の学生票でないと発券できないと断られ、その後しばらく叡電を呪詛し続けたことがある。

錬金術、その2。本屋に質入れ。
デニストンといえばわかる人にはわかるが、古代ギリシア語を読むのに使う辞書のような参考書がある(デニストンはその著者の名前である)。それを今出川通りの理学部近くにあったM書店に持ち込むと、定価3,000円の本で1,000円貸してもらえた。質草をデニストンにしたのは、たまたま所蔵していた書物のなかで一番美装で高価であったからに過ぎない。お蔭でギリシア語を読むのに苦労した。
その1,000円を握って、百万遍の居酒屋で一合60円の酒を飲んだ。デニストンは机上で使うより質蔵にあるほうが長かった本だが、いまでもわが茅屋の書架のどこかに隠れているはずだ。

宿直というバイトもあった。後輩の一人が川端通りの府の土木事務所に泊まり込んでいた。全学連とか中核とか民青とかという言葉が飛び交っていた頃で、大学が封鎖され、長いこと全学休講になった。その間、学生たちはデモの合い間に読書会、研究会などを立ち上げたりしていた。「せっかくだからギリシア悲劇でも読もう」と、週に一度後輩の居るその土木事務所へテクストをもって通った。夕方から2時間ほど読み合わせをしたのち、近所の酒屋で買い込んだ酒をスルメを齧りながら二人で飲んだ。酒は伏見の「明ごころ」。二級酒で一升800円だった。酔余、出町柳駅まで歩き、最終電車で比叡山麓の上高野まで帰った。

モノはソポクレスの『アンティゴネ』だったが、どうしてだか最後まで読み切らぬうちに授業再開となった。
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