2017年08月15日

浄瑠璃寺今昔

今どきの若人は堀辰雄なんて読むのだろうか。筆者の若い頃、彼は文学好きな少年の文学への憧れを、作品もその生活も、じゅうぶんに満たしてくれる存在と思われた。繊細な感性、軽井沢や信濃追分への旅と滞在、喀血と療養、佳人への愛、フランス文学や日本の古代の王朝文芸への造詣、戦中を生きながらそれと没交渉な(とみえる)生、早すぎる病死。

彼は信州だけではなく大和へも旅をした。

最初、僕たちはその何んの構えもない小さな門を寺の門だとは気づかずに危く其処を通りこしそうになった。その途端、その門の奥のほうの、一本の花ざかりの緋桃の木のうえに、突然なんだかはっとするようなもの、――ふいとそのあたりを翔け去ったこの世ならぬ美しい色をした鳥の翼のようなものが、自分の目にはいって、おやと思って、そこに足を止めた。それが浄瑠璃寺の塔の錆びついた九輪だったのである。
(堀辰雄『大和路・信濃路――浄瑠璃寺の春』)


安保闘争に明け暮れた年の秋、二、三の友人と語らって京都から奈良へ寺を訪ねて歩いた。京都や奈良の寺巡りは大学生として当然踏みゆく巡礼の旅、そういう暗黙のしきたりのようなものがあった。亀井勝一郎の『大和古寺風物誌』などの影響があったかもしれない。

自然を超えんとして人間の意志したすべてのものが、長い歳月の間にはほとんど廃亡に帰して、いまはそのわずかに残っているものも、そのもとの自然のうちに、そのものの一部に過ぎないかのように、融け込んでしまうようになる。そうして其処にその二つのものが一つになって――いわば、第二の自然が発生する。そういうところにすべての廃墟の云いしれぬ魅力があるのではないか?[……]
僕はそんな考えに耽りながら歩き歩き、ひとりだけ先きに石段をあがり、小さな三重塔の下にたどりついて、そこの松林のなかから蓮池をへだてて、さっきの阿弥陀堂のほうをぼんやりと見かえしていた。
(同上)


最近奈良が近くなった。阪神電車が西九条から難波まで延伸して近鉄と相互乗り入れをし、三宮・奈良間に快速急行が走り出した。神戸から小一時間もあれば奈良の町へ行ける、乗り換えなしに。

寺や仏像が近い。しかし、それまでは目で見るにしても一度か二度、たいていは文字で読み、写真で見ただけで自分の心中にイメージを膨らませていた大和の寺院の、また仏像の姿形が、望めばいつでも実物を見ることが出来るようになったのは、はたして良いことなのだろうか。

筆者にとっての浄瑠璃寺は、そのイメージは、十八歳の秋のそれである。あのとき境内にはわたしたちの他には誰もいなかった。わたしたちは阿弥陀堂の前から池を隔てて三重の塔をじっと見ていた。堀辰雄もそうしたに違いないと思いながら。それから奈良の街へ降りて行ったのだった。

奈良町の狭い通りの両側には、若者向けのカフェや食事処、ちょっとした装飾品を商う店などが並んでいる。それらを冷やかしながら東の端の清酒「春鹿」醸造所まで行く。酒の他に猪口や徳利など小ぶりの土産物も商っているし、幾ばくかの代金で「春鹿」の辛口を飲むこともできる。そういう場がしつらえられていて、若い女性や外国からの客などで静かに賑わっている。こちらもそれを戴く。少々酔いをおぼえても大丈夫だ、近鉄奈良駅まで歩けば、あとは心地よい揺れに暫時身を任すだけだから。

 風たちぬ/美しき村の/夏木立

いかん、悪酔いしたか。
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2017年08月01日

大阪阿波座のポルトガル料理

その夏はスペインのマドリードでローマの悲劇、セネカ作『メデア』を読んでいた。セネカはスペインのコルドゥバ(現コルドバ)生まれ。早くにローマへ出て勉学修行ののち、皇帝ネロの幼少期の家庭教師となり、のちにはネロ政権の片腕的役割を果した人物である。その本体はストア派の哲学者であったが、ギリシア悲劇をリライトした作品9篇を残した。その『メデア』は、エウリピデスの『メデイア』を素材としたものである。夫に捨てられた腹いせに復讐を企て、夫の新しい妻、岳父、さらに夫との間にできた子供たち二人も殺害するというのが、その粗筋。

ただ両者のメデ(イ)アを比較してみると、その違いが歴然とする。セネカのメデアはエウリピデスのメデイアよりもさらに強い。エウリピデスでは復讐後のメデイアの逃亡先を引き受けるアテナイ王アイゲウスが重要な役割を果すが、セネカではアイゲウスは登場しない。味方を持たず孤立するメデアは嫌でも強くならざるを得ない。彼女は子供に対しても非情である。その出自(黒海東岸のコルキス)を重視したのか、魔女的要素がより強調されている。

メデア メデアが残っている。このわたしの中に/海と陸と剣と火と稲妻とがあるのが見えないか。
乳母 王さまを怖れなければ。
メデア         わたしの父も王だった。
乳母 武器は怖くありませぬか。
メデア          たとえ大地から生まれ出た輩であろうと。
乳母 死にますよ。
メデア    望むところ。
乳母         お逃げなさい。
メデア             逃げて悔やんだことがある。
乳母 メデアさま。
メデア    ええ、そのメデアになってやろう。
乳母                   あなたは人の子の母。
メデア                         母親にしたのは
                       どの男か、おまえも承知。
乳母 逃げるのを躊躇するのですか。
メデア            逃げたい。でもその前に復讐してやりたい。
乳母 追われる身になりますよ。
メデア          追跡を遅らす方法くらいみつかるだろう。
(セネカ『メデア』166〜173行)


メデア [……]もしできるなら、彼は/わたしのヤソンとして以前と同じように生きてほしい。もしそれがだめでも、/彼はとにかく生きてわたしのことを想いながら、わたしがあげた生命という贈り物を上手に使って生きてほしい。/罪はすべてクレオにある。
(同上、140〜143行)


メデア ねえ、たとえ他の者があなたの奥さんはひどい女だと非難しても、/あなただけは弁護してくれて無実だと主張してちょうだい。/あなたのために罪に落ちたのよ、あなただけでも無実だと言ってくれてもいいでしょう。
(同上、501〜503行)


ここには愛があり、未練がある。セネカはエウリピデスのように子供への愛情は描か
なかったが、夫ヤソン(=イアソン)に対する愛と未練は先輩以上に描き込んだ。

『メデア』は最後まで読み切れなかった。研究所が夏休みに入り、寝泊まりしていた学寮も追い出されたのだ。旅に出るしかない。一度ドイツのケルンまで行き、思い返してバルセロナからリスボン行きの夜行寝台に乗った。明ければ海のように広いテージョ河の河口である。かつての威光をわずかに残しながら、しかしどこか哀愁の漂う老いた都市リスボン――丘の上から真直ぐ海へと下る大通りを歩いていたとき、いかにもインテリ然とした年配の紳士にとつぜん呼び止められ、「金を貸してくれないか」と懇願された――、古都コインブラなどを訪ねながらスペインに入り、古い大学町サラマンカを経てマドリードへ帰り着く。食事は? 忙しい一人旅ではゆっくり食卓に向かう気にもなれず、やけに塩辛い大蟹をワインで流し込んだくらいだった。

あれからもう何年にもなる。過日知り合いからポルトガル料理に誘われた。大阪・阿波座のポルトガル料理店C.d.A.である。地下鉄四ツ橋線の本町駅下車、徒歩10分のところにある。中は広くはない。四人用のテーブル2、二人用が3、あとはカウンター10席程度である。ブイヤベース風の魚介類(タラ、エビ、ムール貝、アサリなど)の鍋料理が美味。平らげたあとのスープにコメを煮込んでリゾットにする。これまた美味。やや濃厚なポルトガル産白ワインとともに満喫、堪能した。お薦めである。

老婆心ながら――植民地(ブラジル)生まれの黒髪の女性がいて給仕してくれる、すわメデアか、いや、ちがう。安心されたい。
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2017年07月15日

御影公会堂

昭和20年6月5日、アメリカ空軍のB29爆撃機300余機が神戸に来襲し、神戸の街は完全に焼け落ちた。このとき旧制中学の生徒だった野坂昭如は、ほぼ20年後に、降りくる焼夷弾の中を幼い妹を連れて逃げ回ったその体験を一篇の物語に仕上げた。『火垂るの墓』である。
作中の少年清太は神戸の東部、御影の町で罹災する。

「よっしゃ、おんぶし」節子を堤防にすわらせ、清太が背をむけるとのしかかってきて、逃げるときはまるで覚えなかったのにズシリと重く、草の根たよりに堤防を這いずり上る。
上ってみると御影第一第二国民学校御影公会堂がこっちへ歩いてきたみたいに近くみえ、酒蔵も兵隊のいたバラックも、さらに消防署松林すべて失せて阪神電車の土手がすぐそこ、国道に電車三台つながって往生しとるし、上り坂のまま焼け跡は六甲山の麓まで続くようにみえ、その果ては煙にかすむ、
(野坂昭如『アメリカひじき 火垂るの墓』新潮文庫、16頁)

 
空襲下、病身だった母とは死に別れ、清太は節子を連れて西宮の満池谷まで遠縁を頼って逃げて行く。が、そこも安住の地ではない。追い出されるようにして近くの防空壕用の横穴に移り、生きるために喰い物を求めて奮闘するが、ついに力尽きる。節子が死ぬ。それを一人で火葬に付し、蛍が群舞するなか遺骨を拾う。ほどなくして清太も国鉄三宮駅構内で命絶える。二人とも栄養失調による衰弱死だった。

むしろもかけられず、区役所から引き取りにくるまでそのままの清太の死体の横の[……]ドロップの缶もて余したようにふると、カラカラと鳴り、駅員はモーションつけて駅前の焼跡、すでに夏草しげく生えたあたりの暗がりへほうり投げ、落ちた拍子にそのふたがとれて、白い粉がこぼれ、ちいさい骨のかけらが三つころげ、草に宿っていた蛍が驚いて二、三十あわただしく点滅しながらとびかい、やがて静まる。
(同上、11〜12頁)


阪神青木駅から神戸高速行き各停に乗り、石屋川駅下車。12,3分ほどの乗車である。
駅から北へ石屋川沿いに5分も歩くと国道2号線に出る。真向かいに御影公会堂がある。戦災にも震災にも耐え、創建時(1933年)のままの姿である。ただ修復には入念で、この3月に最新の工事が終わったばかりだ。
地下に食堂がある。ハヤシライスとビールを注文し、ひと息つく。ここのオムライスが有名と聞いたが、いや、ハヤシライスこそ看板メニューだとの古くからの説もある。
いずれにしても三ツ星、四ツ星の世界ではない。素朴な町の食堂、いや、昔デパートの上階にあった大食堂の小型版、といった感じである。
この建物、清酒「白鶴」醸造元の嘉納家の寄付によって建てられたという。あの講道館の主、嘉納治五郎の一族である。とすれば、ビールではなく清酒「白鶴」を注文するべきであったか。

神戸空襲からほぼ3週間のち、ここより西の瀬戸内海沿いの町岡山が同じくB29に爆撃されて炎上した。6月29日未明のことである。遠く東京から疎開してきていた永井荷風がこれに遭遇した。やや時を置いて8月に荷風は、これも疎開してきていた谷崎潤一郎を訪ねて県北の真庭郡勝山町へ行き、一夜歓談している。

この岡山への空襲は筆者も体験した。母親に手を引かれて逃げ惑う道すがら、県立第2中学校の校庭に雨霰と降りくる焼夷弾の曳光が今も目に鮮やかである。節子と同じ年頃だった。
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